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“あのときの中曽根元首相のスピーチはほんとうに素敵だった” 『30年の物語  (講談社文庫) 』 岸恵子 講談社

30年の物語 (講談社文庫)

30年の物語 (講談社文庫)

 岸惠子の文章を読むたびに深い感動を得る.この人は女優であるが,すばらしい名文家であり,ストーリテラーでもある.さらにその内容は,単なるエッセーなどでは決してなく,深い文明批評でもある.日本を代表する文化人と言っていいだろう.多くが絶版になっているのが本当に残念である.
 最終章,「ホームレスと大統領」は,ぜひ引いておきたい文章.
中曽根元首相のフランスでの演説のエピソード,故ミッテラン大統領とその夫人のこと,(元)夫のレジスタンス活動のこと,など,どれも忘れがたい物語.日本にいては決してしることのできない物語の数々.豊かな世界.
 ちなみに,下記の会話の相手は,セーヌ河畔に住みつくホームレス.ベンチにいっしょに腰掛け,彼の持っている怪しげなワインを,彼の紙コップで,躊躇しながらも飲む.それができるところが岸惠子の国際人としての真骨頂だろう.
P.272

 数年前のことだったが、あのときの中曽根元首相のスピーチはほんとうに素敵だった。洒落あり、皮肉あり、愛敬ありでフランス人気質の機微に触れ、フランス映画からシャンソンのこと、そのシャンソンにひっかけて、そのとき大統領選出馬の噂があったイヴ・モンタンを軽くからかったりで、満場の人々の爆笑と喝采を浴びた。私の知る限り、パリで、日本国の政治家が、そのトンチと、ときどき交える朴訥なフランス語でこの国の鐸々たる聴衆を沸かせたのは、その前も後も、皆無である。
 私が感服したのは、そのときのスピーチを中曽根元首相はあらかじめ用意していたわけではなく、シラク市長(当時)のいかにもENA(高等行政官僚を養成する超エリート学校)出身のテクノクラートらしい、面白くもおかしくもない四角四面な、原稿を読みつつの演説に、聴衆が退屈しているのを見てとって即座に方針を変更したことだった。
 比較的前の席にいた私に中曽根さんが通訳氏に言うのが聞えたのだ。
 「スミマセンが……原稿破棄してください。アドリブでいきます」
と言っていきなり、フランス映画のクラシックを例にとってはなしだした。フランス入が喜ばないはずはない。
 「天井桟敷の人々」「舞踏会の手帖」
 若い通訳氏は映画通ではないらしく赤面しながら、「えッ?えッえッ」と疑問符つきで詰まった。
その狼狽ぶりが実にリアルで感じがよく、その有様を苦笑しながら見てとり、間髪を入れず、「Les Enfants du Paradis(レザンファン・デュ・パラディ)(天井桟敷の人々)」「Un Carnet de Bal(アン・カルネ・ドゥ・バル)(舞踏会の手帖)」と一言一言句切りながら、自らフランス語で言った中曽根さんに聴衆は拍手した。
 「日本には下手の横好きということばがありましてね、私は『枯葉』というシャンソンが大好きです。これも日本の滑稽な習慣ですが、風呂に入って頭の上に手拭いをのせて、私はよく上手くもない『枯葉』をうたう。だから、イヴ・モンタンさんは私にとって雲の上の人、幻の師匠です。ただ、そのシャンソンの大師匠に、今、私が教えてあげられることがたった一つある」
 ここで中曽根さんはちょっと間をとった。実に的確で効果的な間であった。さながら名優の域である。
 「政治はそんなにかんたんなものじゃない」
 会場は割れんばかりの拍手であった。

P.274

 それにしても、と私は思ったものだった。あれだけ気難しいフランス人を沸かせ、新聞でも称讃されたのに、肝心の日本の新聞は私の知る限りただの一行も市長舎でのカッコよかった元首相の快挙について書かなかった。
 パリ在住の特派員諸氏の大部分がそろっていただろうに……。
 首相の座をしりぞいてから月日が経っていたからだろうか……。それにしては、この前日、私が聴きに行けなかったソルボンヌ大学でのフランス語の講演については、「目立ちたがり屋」だとか、「下手クソなフランス語で……」という、まったく見当ちがいな評価を下した新聞もあったという。
 フランス語が下手で当たり前。訪問先の国のことばで講演する、という誠意とエネルギーをなぜ買わないのか。それに公費を使って日本をアピールするために海外出張をする政治家が目立ってくれなくては税金を払っている国民が割を食う、というのがリアリストである私の理屈である。

P.276

 「まるっきりわかンねえよ。風見鶏がいやだって?一国の大将が風向きもみないで闇雲に方向ちがいへ突っ走ったら船は沈んじまうよ。パフォーマンスが嫌いだってり・そいじゃ政治家は何をするのさ。こうもり傘でも飲みこんだようにただ突っ立ってればいいのかい?黙って勝負されちゃピープルは置いてきぼりってわけかい?日本的じゃないって嫌うなんざ、悪いけど、そういう日本的な人たちのケツの穴は思いっきり狭いってことじゃないのかい?」

P.279

 私の夫は医科大学生だったとき、「自由フランスよ、立て!」とロンドンからラジオで呼びかけたシャルル・ド・ゴール将軍の下へ、十二入の学友とともに、三々五々に別れ、夜陰にまぎれてナチス占領下のパリを出発した。最初の犠牲者はピレネ越えの最中に出た。ドイツの軍用犬を駆使してレジスタンスを摘発する「コラボ(コラボラターの略)」と呼ばれたナチスに協力するフランス人たちの手によって殺されたのだった。
たぶん自殺ではなかったかと私は思う。
 医科大学生である。万一のとき、熾烈な拷問で暗号や組織を無意識のうちに口走らないよう、ひそかに毒物をかくし持っていたのではないか……。敵の目的は殺すことではなく吐かせることだったのだから。しかもその敵は、ドイツ人ではなく同じフランス人なのだった。
(中略)
 命を賭して共に戦いとった「パリ解放」の日、夫はこうして生涯の友を喪ったのだった。
 パリを出発した十二人の医科大学生のうち、生きて還れたのは、夫と、のちにノーベル生理学医学賞を受賞したフランソワ・ジャコブの二人だけだった。
 はからずも生還したこの二人に、これらの体験が残したものはなんだったのだろう。
 還らぬ友、敵も味方もなく喪われた数えきれない若い命、憤りや憎しみを越えて彼らに巣喰ったのは、戦争という巨大な虚無ではなかったろうか。

 フランソワ・ジャコブ! ジャコブ&モノーのジャコブ!wikipediaによれば,
フランソワ・ジャコブ(François Jacob, 1920年6月17日 –)まだ生きている!
P.285

 ミテランには毒あり、野心あり、たっぷりとした権謀術数をやんわりと駆使する老獪さもあった。その持つさまざまな顔はカメレオンのようでさえあった。
けれど、パリ在住三十年のジャーナリスト藤村信さんも指摘なさったよう、
―それでも、ミテランの権謀術数はヒューマニズムから脱線することはなかった。巨大な敵手であったド・ゴール将軍の偉業と並び立とうとする彼の超人的な努力の一部であって、理念なき政治業者の権謀ではない。―(『ヨーロッパ天変地異』岩波書店)
 たしかにミテランははじめこそ多くのアンティ・ミテラニズムをかかえてはいたが、左翼から立ったはじめての大統領として二期十四年間を全うした。死刑制度を廃止し、移民労働者へ労働ヴィザを与え、その夫人であるダニエル・ミテランは、「国境なき医師団」の設立者、ベルナール・クシュネールと組んで、『干渉する義務』(クシュネール著)を身を以て実践した。
(中略)
 蛇足かもしれないが、彼女は、途中から地下に潜ったミテランとは違って、生え抜きのレジスタンスの女闘士であった。二人はその抵抗運動の中で結ぼれたのだった。後年、五十歳に近いミテランが娘のように若い女性に恋し、一女をもうけた時も、その二人を、こともあろうに、日本の天皇・皇后両陛下を迎えての、これまでに類を見ないほど豪華を極めたと言われた晩餐会に、ダニエル夫人とともにはじめて列席させ周囲が驚きにどよめいたであろう時も、私の席からは見えなかったが、ダニエルこミテランはすばらしく自然体であったにちがいない。
(中略)
 あとになってわかったことだが、ミテランの癌細胞が骨に転移したのは、大統領になって六ヵ月後のことだそうである。
 「三ヵ月、もって三年…」という侍医にミテランは箝口令を布いた。
 「これは国家機密である」
 こうして在職十年目にはじめての手術が行われるまで、はじめて左翼から出た大統領として「ガラス張りの中の健康報告」を主張しながら、その報告内容はすべて嘘であった。
 その間歴史に名を残すことにも意欲的であったミテランは、ルーブル美術館の前に意表をつくガラスのピラミッドを建てて話題を呼び、デフォンス地区に巨大で超モダンな二十世紀の凱旋門を建造した。これでもか、という自己主張がうかがわれた。
 かたや、ド・ゴールは文学的に価値の高いすぐれた回顧録を残し、その高潔な人柄で、人人の間に褪せることのない偉影を残している。二人の大統領の根本的なちがいの一端であると思う。
 「でもよ、ミテランのじいさんがいろんな顔を持ってたっていうけど、それは、フランス人って人種そのものがひと筋縄じゃいかないふくざつな顔や欲望を持っているんだよ」
とおじさんが言う。私は藤村信さんが書かれた一節を憶い出す。
 ―ミテランは高い水準の文人でもあった。フランス人という複雑な人間種族の心理を隈なく知ることにおいて、ド・ゴールと相並ぶ洞察力をそなえていた―
(中略)
 長くて三年……と言われた命を、自らの意志と勇気で闘いとり、二期十四年間の大統領任期を全うしたのは、まさに神話的な奇蹟である。
 彼が大統領をしりぞき、侍医に治療を止めさせたのは翌年のお正月のことだった。
 二日と宣告された余命の中でミテランは、現代人の生と死への関わり方の貧しさや、―精神砂漠の中で神秘から身をさけ、命の源泉から生きる喜びを汲みとることを忘れている―という意味の遺書を残した。書き終わったちょうど二日目の一月八日の朝。自らの信念と目的のためには、あらゆる権謀術数を使い、はじめのうちはエセ社会党と疑われ、晩年にはペタン派の生き残りとの交友で非難され、けれど数々の人道的善行をなし、最後には慈父として慕われた、これらさまざまな顔を旅行カバンの底に秘めて、フランス国第五共和制、四代目の大統領は息をひきとり、長旅へ発っていった。
 世はヒューマニズムのフランスから、シラク大統領ひきいるテクノクラシーのフランスに変貌しつつあった。
(中略)
 それはほんとうに市民が心からの哀悼で送る壮大にして見事な告別の儀式であった。
 長時間にわたって粛々と行われたその葬儀の中で、フランス国民が再び愕然とする光景がテレヴィ画面に映し出されたのは、すでに葬儀の後半であった。
 ダニエル・ミテラン夫人と、二入の息子と並んでミテランが愛してやまなかった隠し子、二十一歳になるマザリーヌとその母親がひっそりと立っていたのである。報道陣でさえあまりの異事にキャメラを向けることをためらったという。
 もちろんミテランの遺言によるものだが、前大統領の国家的葬儀に二人の妻が並んで列席するというのは前代未聞の椿事である。
 フランス革命以来二百年、脈々と続いている「自由・平等・博愛」の精神を以てしても、夫の遺志をうけとめ、マザリーヌの将来を思ってすべてを甘受し実行した、レジスタンス時代からの同志であり、妻であるダニエル・ミテランの寛大にして偉大な入間愛に私は感動した。

フランス近現代史は,奥が深い.藤村信の名前も懐かしい.「パリ通信」
ベルナール・クシュネル(Bernard Kouchner、1939年11月1日 - )
ダニエル・ミッテラン(Danielle Mitterrand, 1924年10月29日 - 2011年11月22日).夫は、フランソワ・ミッテラン元大統領.夫がフランソワで夫人がダニエルなのね.
P.297 解説 町田康

 そしてこの場合の遠く隔たった場所というのは単に地理的空間的のそれではなく(もちろん作者の場合それもあるのであるが)、作者は、美しい追憶に彩られた三十年という時間はもちろんとして、それよりもっと大きな歴史から現在、二つの隔たった思想や宗教、夢から現実、生から死といった、通常、とうてい往還できないような場所から場所をごく自然に当たり前のように軽やかに往還していたのである。

町田康の解説もいいですね.
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