“こうした彼女の行動には、少女時代に軍国主義の操り人形とされた過去への、強い自責の念が感じられる。アラブ問題に強い国会議員を18年勤め、鶴見俊輔や三木睦子らとアジア女性基金を設立、民間レベルでも元従軍慰安婦問題解決に腐心したことは、重要である” 『過去への自責の念行動に 女優・李紅蘭を悼む』 四方田犬彦 朝日新聞 2014年9月17日

女優山口淑子さん(李紅蘭)の訃報が伝えられた.山口淑子の名は,参議院議員の名前として,李紅蘭の名は,激動の時代を中国で生きた女優の名として,わずかに知っていた.特に後者については,何度かドラマ化されたのを見たことがある.最近のところでは恐らく下記であろう.

 中国で生まれ育ったこともあり,中国人女優として活躍してきた彼女は,敗戦後,中国侵略に加担した売国奴として死刑になるところであった.私が知っていたのは,テレビドラマを通じて知ったその人生の一面と,帰国後女優,司会者として活躍した後,参議院議員として自由民主党の代議士としてのその名前である.田中角栄の要請によるものであるらしい(山口淑子, http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%B7%91%E5%AD%90&oldid=52923951 (last visited Sept. 18, 2014). ).
 自民党代議士,田中角栄というところから得るイメージからは想像できない,戦後の山口淑子さんの活動を,この四方田犬彦氏による追悼文から知った.リオデジャネイロでその訃報を知った氏は,周囲に彼女のことを語り合う人間がいないことに孤独を感じたという.そして,

 わたしが親しく訪れた台湾やパレスチナの難民キャンプでは、おそらく事情はまったく違っているだろう。人々は70年前に台湾の少数民族の少女を映画で演じた李紅蘭を懐かしみ、自分たちの惨状に深い共感をもってドキュメンタリーを撮りあげたジャミーラ・ヤマグチに熱い思慕に念を送っているはずだ。
 一昔前だが、わたしが映画史家として山口さんにインタビューしようと東京・一番町のアパートメントを訪問したとき、彼女は自分のことをただ「ジャミーラ」と呼んでほしいと語った。それは難民キャンプでの日々に、パレスチナ解放機構アラファト議長から与えられた名前だった。

だが、日本人だと判明して帰国。その後、ハリウッドや香港でも活躍。70年代に入るとパレスチナ問題に積極的に関わり、日本赤軍をめぐるインタビューでテレビ大賞優秀個人賞を受賞した。
 こうした彼女の行動には、少女時代に軍国主義の操り人形とされた過去への、強い自責の念が感じられる。アラブ問題に強い国会議員を18年勤め、鶴見俊輔三木睦子らとアジア女性基金を設立、民間レベルでも元従軍慰安婦問題解決に腐心したことは、重要である。

山口淑子さんにインタビューして信じがたい話しをつぎつぎと聞いた氏は、いつかそれを纏めてみておこうかと考えている,と言う.楽しみに待ちたい.
【関連読書日誌】

  • (URL)“ダイモーンに対して取りうる最上の態度とは、それを避けることではなく、その声を耳を澄ませて聴き、そのいわんとするところを理解することだ。悲劇とは、自分のダイモーンを自覚できなかった者たちの敗北の物語にすぎない” 『再会と別離』 四方田犬彦, 石井睦美 新潮社

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【一緒に手に取る本】

李香蘭 私の半生 (新潮文庫)

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「李香蘭」を生きて (私の履歴書)

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戦争と平和と歌 李香蘭心の道

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男装の麗人・川島芳子伝 (文春文庫)

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“ケインは社会のどん底で長い時間を過ごし、どん底に漂う問題を扱った。それは事実だ” 『 カクテル・ウェイトレス』  (新潮文庫) ジェームズ・M.ケイン, James M. Cain 解説:チャールズ・アルダイ 新潮社

カクテル・ウェイトレス (新潮文庫)

カクテル・ウェイトレス (新潮文庫)

長く生きていると良いこともあるものだ.もう一度会いたいと思っていた人に,ひょんなところで再会したり,かつて深い感銘を覚えた書き手の文章に,も一度出会ったり.この本もそんな一冊である.解説によれば,ケインの遺作とされた作品を探し当て,再編集して刊行されたものである.ここ1,2週間の間に,週刊誌や,新聞紙上で,このケインの最新刊に触れている人が複数いた.ジェームズ・ケインというのはそいう存在だったのだ,ということを改めて認識した.
 ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は,かれころ40年弱前の中学2年生の時,まだ読書を趣味にする以前の頃,たまたま,浜松谷島屋書店の本店で文庫本を買って読んだのが出会いである.ハード・ボイルドというのが作品の売り文句であったと記憶しているが,ハード・ボイルドなんて言葉を知ったのもこの文庫本であったかもしれない.「郵便配達は二度ベルを鳴らす」はジャック・ニコルソン主演の映画で広く世の人に知られるようになったと思うが,それ以前に,巨匠ルキノ・ビスコンティ監督によって映画化されている.私がビスコンティの名前を知り,「家族の肖像」を岩波ホールで観るのはずっと後のことだ.ハード・ボイルドと同時に不条理ということばも,「郵便配達」あたりで知ったのだっけ.
 本書も,ケインらしいストーリ立て.最後にもう一波乱あるのかなとは思ったが.ケイン自身は,出来上がりに必ずしも満足してなかったらしく,だからこそお蔵入りになった.「郵便配達は二度ベルを鳴らす」も本書「カクテル・ウエイトレス」も,どこにでも普通にありそうな街場の幸せと不幸を背負った人たちのものがたりであるが,なぜ惹かれるのかと言えば,適度に善人で適度に悪人になる市井の人たちへの賛歌,愛情みたいなものを感じるのである.適度に善人で適度に悪人(人は皆アンビバレンツな要素を持つもの)であるが故に,運命に弄ばれる.本書のように,最終的に幸せ(?)をつかむ場合もあれば,「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のヒロインのような場合もある.それは,紙一重でしかない.
P.487 本書を発掘したチャールズ・アルダイによる解説より

 ケインは社会のどん底で長い時間を過ごし、どん底に漂う問題を扱った。それは事実だ。しかし、彼の作品は、それにもかかわらず偉大なのではなく、それだからこそ偉大なのだ。その結果として、これと同時代の作家の作品は多く忘れ去られてしまっているのに、彼の本だけは力強い反応をその後も得て、今も得つづけている。

P.504

 ケインと同世代の作家、類い稀な卓越した才能に恵まれたレイモンド・チャンドラー(因みにチャンドラーはアカデミー脚本賞にノミネートされた『深夜の告白』のシナリオの共同執筆者でもある)はケインを嫌った人々のひとりだった。

【関連読書日誌】
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郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

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郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす (ハヤカワ・ミステリ文庫 77-1)

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郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

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郵便配達はいつもベルを二度鳴らす (1953年)

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美しき恋のからくり (Midnight theater (2))

美しき恋のからくり (Midnight theater (2))

“清志郎は届けられた遺品の中にあった実母の写真をいつも持ち歩いては、とてもうれしそうに、みんなに自慢するかのように見せていた” 『あの頃、忌野清志郎と  ボスと私の40年』 片岡たまき 宝島社

あの頃、忌野清志郎と ~ボスと私の40年

あの頃、忌野清志郎と ~ボスと私の40年

忌野清志郎の衣装係,マネージャを務めた著者の思い出話という色彩が強いが,忌野のすぐ近くにいた人にしか分からない忌野清志郎の魅力が伝わってくる.しかし,とにかく年季の入り方が半端ではないのだ.まだ周囲がアイドルと追っかけている年頃に,まだ人気が出る前の,フォークソングとも言える歌を歌っている時代に,忌野を知り,はまり,ライブハウスをまわり(コンサートにいくような中学生は不良とみなされた時代である),事務所の職員募集を待ち続け,念願かなってスタッフ入りする.
 忌野清志郎が3歳の時に死に別れた母のこと,父のこと,育てられた家のこと,熱狂的ファンならば知っていたことかもしれないが,そうした,プライベートについても記載がある.愛されて育ったことがわかってほっとした.「Covers」のこともなるほどなと思うのである.

かつて忌野清志郎をして著書の中で
「彼女になら、俺は何だって話しちやぅょ」と言わしめた
元マネージャーの著者が惜しげもなく披露する珠玉のエピソード。
この世界が平和だった頃のゴールデンデイズをいまこそ語ろう。
あの頃、忌野清志郎と過ごしたー。

P.135

 88年、年明け早々、休む問もなく次回作『カバーズ』のレコーディングがはじまった。それも終わりにさしかかった2月,清志郎の父が心筋梗塞により他界する。2年前には母が永い闘病のすえに永眠していた。
 父の葬儀を終えたあと、母方・栗原本家の叔母が妹さんとふたりで、軽トラックに古ぼけた段ボール箱を積んで国立まで届けてくれたという。それは、栗原本家の蔵に33年間、保管してあった実母の遺品だった。清志郎は届けられた遺品の中にあった実母の写真をいつも持ち歩いては、とてもうれしそうに、みんなに自慢するかのように見せていた。

 1955年(昭和30)年2月27日、清志郎の実母の富貴子(ふきこ)は清志郎が3歳のときに胃がんで早逝し、1955年9月、実父である新井弘が、息子である清志(清志郎)と毅(たけし)のために、写真など妻・富貴子の遺品を保存した。
 清志郎は、子どもがいなかった富貴子の姉・久子と、その夫であり分家筋にあたる栗原康平の間で、養子として育てられることになり、弟・毅は新井家方に引きとられることになった。それ以降、清志郎の3歳までの実母との記憶と、実母の33歳までの記録は、本家の蔵でともに眠ることになる。

 富貴子の遺品には、最初の夫の記録が数多く残されていた。
 結婚後まもなく徴兵された夫は、激戦地レイテ島にて戦死し、1945年(昭和20年)12月12日に、富貴子は正式に除籍となった。
 戦地にいる若き夫と交わした軍事郵便や、戦争を批判した内容の富貴子が詠んだ短歌、やさしく扱わないといまにも朽ちてしまいそうな薄紙の「戦死公報」らが、自らの手によってきれいにスクラップされていた。
 富貴子は除籍後、約5年たった1950年(昭和25年)7月12日に、職場「日新化学」の同僚である新井弘と結婚。翌1951年4月2日、第一子・清志郎をもうけるのだった。

 それら実母の遺品を目にしたとき、清志郎はどう思っただろうか。完成寸前だったアルバム『カバーズ』を携えた清志郎が、反戦・反原発といったメッセージを歌詞に織り込んだことには、あまりにもシンクロニシティが働いている。
 清志郎はインタビュ―で、
「遺伝子に組み込まれているかと思った」
と語つている。

P.151

 87年11月6日より、FM大阪でオンエアーされていた深夜ラジオ番組『忌野清志郎の夜をぶっとばせ!』の収録時、空いた時間に清志郎三宅伸治はよくギターを弾いていたという。
 シンちゃん(三宅伸治)が、通称『赤本』というコ―ド譜のついた歌本を持参してジャカジャカやっていたときに、ザ・モンキーズの曲が目にとまり、『デイ・ドリーム・ビリーバー』を弾きながら、
「モンキ―ズはイイ曲が多いね」
「そうすね〜、ボス」
などと話していたそうだ。
すると次回の収録に、清志郎が『デイ・ドリーム・ビリーバー』の日本語歌詞を持ってきたという。そこでシンちゃんはオリジナルの『土木作業員ブルース』を作って持っていった。そんな高校生のようなやりとりが、次々に曲を生み、バンドや衣裳のアイディアを広げていった。

【関連読書日誌】

  • (URL)“昔のことなら笑いながら話せる。だって本当に楽しいことばかりだったから。未来のことなら笑いながら話せる。だって夢のようなことを実現できると思うから” 『忌野清志郎 瀕死の双六問屋 完全版』 忌野清志郎 新人物往来社
  • (URL)みんなが自分の本当の仕事を持っているのだ.  『瀕死の双六問屋  (小学館文庫) 』 忌野清志郎 小学館

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

ネズミに捧ぐ詩

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忌野清志郎が聴こえる 愛しあってるかい

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GOTTA(ガッタ)!忌野清志郎 (角川文庫)

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忌野清志郎 瀕死の双六問屋 完全版

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瀕死の双六問屋 (小学館文庫)

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瀕死の双六問屋

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“彼は現役の大統領でありながら、明らかにアメリ力の知的少数派に属している” 『詩人フロストとオバマ大統領』 川本皓嗣  図書 2014年 09月号  岩波書店

図書 2014年 09月号 [雑誌]

図書 2014年 09月号 [雑誌]

アメリカ大統領としてのオバマへの評価は,現在必ずしも高くない.黒人の血をひく大統領として,リベラル民主党の党首として期待されたはずだが,指導力においても,外交政策においても疑問視する声が多い.だがしかし,である.大統領選当時出版されたオバマ候補に関する本によれば,かれが長い間,アメリカのリーダになるための資質を獲得するために,どれだけの努力を積み重ねてきたかが語られていた.あれだけの研鑽を準備を重ねている日本の政治家がいるのだろうか.
 比較文学を専門とする川本皓嗣氏が,2014年4月24日のオバマ大統領歓迎宮中晩餐会へ招かれた時のことを語っている.詩人ロバート・フロストに関するものである.
wikipedia によれば(ロバート・フロスト, http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88&oldid=52188409 (last visited Sept. 13, 2014). )

ロバート・リー・フロスト(Robert Lee Frost, 1874年3月26日 - 1963年1月29日)はアメリカ合衆国の詩人。作品はニューイングランドの農村生活を題材とし、複雑な社会的テーマや哲学的テーマを対象とするものが多く、大衆的人気も高く人口に膾炙した。生前から表彰されることもしばしばで、ピューリッツァー賞を4度受賞した。

 オバマ大統領が,アメリカの詩人について語るのと同程度の広さと深さで,日本の詩人について語ることができる政治家は誰であろうか.

 侍従らしき方が大統領に、東大名誉教授(比較文学)と私を紹介してくださった。「何を研究しているか」と大統領に訊ねられたので、「アメリカ、イギリス、フランス、日本、そして少々中国の詩」と申し上げると、「そう、世の中には政治や金なんかとは別に、大事なことがたくさんある」、という旨のことを話された。まことに仰せのとおり。「あなたは自分で詩を書くか」と問われたので、いや、書きません。下手な詩を書くと、評者(critic)としての面目にかかわるから」と申し上げた。大統領は笑って、「アメリ力の詩を日本で教え広めてくださって、まことに有難う。ところて、アメリカの詩人で誰がえらいと思うか」と訊ねられた。とつさにフロストの名を忘れて、「ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ、ウォーレス・スティーヴンズ、エミリー・ディキンソン」、それから家内に確かめて、「ロバート・フロスト」とお答えした。
 驚いたことに、オバマさんはすぐ「その中ではディキンソンが最高だ」と断言された。私は全く同感だと答え、その上で、「フロストはいつも低く見られる傾向があるが、実は」と言いかけると、オバマさんは「そう、たいへん人気があるし、詩もやさしそうに見えるので、軽視されがちだが、その言葉をじっくり読み味わうと、表現は絶妙だし、意味は深く、かなり難解だ」と、力をこめて話された(正確な英語を忘れたので要旨のみ)。フロストという、いろんな偏見にも包まれた容易ならぬ詩人について、現大統領がずばりと的を射た批評を下されたので、私はただただ驚嘆し(食事のときの酒も手伝って)、つい"You're damn right!"と叫んでしまった。大統領は破顔一笑、そばのアメリカ人の通訳が大笑いされた。

だが、彼がフロストを論じる口ぶりが、大多数の読者のそれとはまったく異なって、ジャレルの言い方(「フロストの考えの本当の複雑さ、知的洗練、そして曖昧さ、(…)彼の詩の幅と深さと高さ」)にそっくりだつたことは、彼がフロストを「畏敬の念をもって」じかに熟読したことを物語っている。その点に関する限り(あるいはむやみに戦争をしかけたりしないことなど、他の多くの点でもそうかもしれないが)、彼は現役の大統領でありながら、明らかにアメリ力の知的少数派に属している。その驚きが一瞬、私に慎みを忘れさせたのだ。
 もっとも、オバマがフロストをよく知る最初の大統領であるかどうか、うかつに断定することはできない。一九六一年、ケネディ大統領が就任式にフロストを招き、アメリカ史上初めて詩人に自作を朗誦させた。「無条件の贈与」The Gift Outrightがそれである。しかもそ
の時、ケネディは最終行のwouldを、その場にふさわしく willに変えてはどうかと提案したというのだから、フロストへの理解と親愛感も、けつして並みのものではなかつただろう。

素朴で大らかそうな外見に反して、フロストの詩は、内に底なしの暗さをかかえている。

【関連読書日誌】

  • (URL)“あのときの中曽根元首相のスピーチはほんとうに素敵だった” 『30年の物語  (講談社文庫) 』 岸恵子 講談社

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

アメリカ名詩選 (岩波文庫)

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イギリス名詩選 (岩波文庫)

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文学の方法

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フロストの仮面劇

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“人はみな、もう一つの何かを胸に抱えたまま死んでいく。それを真実とは、呼べないけれど” “異文化とは外国のことではない。異なる世界はすぐ隣にある” 『なんといふ空』 最相葉月 PHP研究所

なんといふ空

なんといふ空

最相葉月氏の書いたノンフィクションは,『絶対音感』『青いバラ』『星新一 一〇〇一話をつくった人』『セラピスト』とずっと読みつづけてきた.『絶対音感』『青いバラ』あたりは,題材の選び方も上手く佳品だが,今ひとつ詰めが甘いと感じ,惜しいなと思っていた.『星新一』各賞受賞した大作で(私が執筆,編集に関わった本が突然引用されていて驚いたものだ),『セラピスト』には深く感銘を受けた,一方,このブログでも記したことがあるが,雑誌の図書や,新書本の一篇として寄せた小文に捨てがたい味と深みがあり,常に気になっていたのである.
 『セラピスト』に書かれているエピソードだが,中井久夫氏に「これまで書いてきた著書のうち,かわいいものは何ですか」と聞かれ,この『なんというふ空』をあげている.「今はもう書けない,愛しい本です」という.それがきっかけとなって再刊されたのが本書.うれしいのは,初版『なんといふ空』に加え,単行本未収録の文章が加えられていることである.
 『セラピスト』と本書を読んで,最相葉月さんのことがよくわかったと思う.本書は,特に前半が良い.味わいのあるいい文章である.向田邦子須賀敦子の文章を思いださせるものがある.本書を読むとわかるのだが,大学時代に劇団に関わり,卒業後,脚本も勉強していたそうである.なるほどと思わせるものがある.最相葉月作の,テレビドラマなど観てみたいものである.
 特に忘れがたいのは,「わが心の町 大阪君のこと」「手紙」「千二百字が生んだ物語」と題された一連の文章.長澤雅彦監督,真中瞳堺雅人主演の映画「ココニイルコト」(2001年)を観てみようと思う(Wikipedia, ココニイルコト, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%8B%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%88 (optional description here) (as of Sept. 10, 2014, 13:10 GMT). )
 映画監督を目指して松竹に入るも夢かなわず苦労を重なる父親のことなど,人生を考えさせる.山頭火が好きだというのもよくわかる気がする.
P.53

人はみな、もう一つの何かを胸に抱えたまま死んでいく。それを真実とは、呼べないけれど。

P.57

六年前、私のライター初仕事は競輪記事だった。大切なことはみんな競輪場で学んだ。屋台でラーメンを食べながら、予想屋さんや常連客たちの昔話を聞きながら。そして、はずれ車券の山をスニー力ーで踏みしめながら。

色川武大寺山修司みたいだ.
P.114

ろう者の豊かな表現世界を描く労作『もうひとつの手話』(斉藤道雄著)に登場する手話講師はこう語つている。<(手話を学ぶときには)日本語は必要ない。日本語という意識を取り去ってほしい〉
聴者が手話で会話しようとすると、どうしてもそれに相当する日本語を探してしまう。日本語で物を考える。だが、ろう者にとっては手話が母国語。違う言語世界にいるのだ。ならば、どんなコミュニケーションが必要か。
 異文化とは外国のことではない。異なる世界はすぐ隣にある。

P.116

 アメリカの社会学者、D•サドナウの『鍵盤を駆ける手』といぅ本がある。これは、サドナウ自身がジャズピアノをマスタ―するまでのあらゆる過程を意識して、逐一言葉にしていつたジャズプレイの分析本だ。そのリアリティある表現に、山下洋輔も「これ、ぼくが書いたんじゃないか?」と感嘆したほどで、素人が読んでもなかなか興味深い。その第三章にこんなくだりがある。

P.123 テーブルマナーと題された一文.女学生時代に学校で強制的に行われたテーブルマナー教室の可笑しさからはじまって,結婚して指摘された箸の持ち方のおかしさに至る.で,次の一文で終わる.上手い.

わが家は、弟は神社の長女と、私は創業百年になる家具店の長男と一緒になった。.こんなる偶然だろうが、私たち姉弟が引かれたのは、それぞれの伴侶の背から匂い立つ、「世間」の蟬りかもしれなかった。

P.129

第一便を走らせる前年の明治三年、駅逓権正(えきていごんのかみ)に命じられた前島密は、郵便制度の具体案がほぼまとまりかけたころ、まずためしに東海道に通信便を開きたいと太政官に稟議書を提出していた。稟議はすぐに採用されることになったが、『前島密自叙伝』には、この稟議の前後に苦労させられたという四つの興味深いエピソードが記されている。
(略)
 祖父に、おじいちゃんのおじいちゃんは郵便制度をつくった前島密だよと教えられたのは、小学六年生のときだった。飛脚制度を廃止したことで命を狙われ、一時岡山の総社に身を隠した前島の世話をした地元の令嬢が、祖父の祖母だった。息子、すなわち祖父の父が台湾で郵便局長をしていたのは、前島の力添えがあったからではないかといわれている。遠く置き去りにしたもぅひとりの息子について、自叙伝は何も語っていないが。

P.135

 西暦2000年までに留学生を他の先進国なみに受け入れるとする中曾根内閣の「留学生受け入れ十万人計画」(1983)が実現できなかったのは、彼女たちのような留学生予備軍である日本語就学生の抱える問題点がなかなか解決されないことが原因だ。

P.146

安田講堂が落城し、運動が衰退していったころの気分を当時東大助手だった最首悟はこう記している。
「“体制”に対する言葉にならない怒りと、主体性を確立し得ない己への怒りは相変わらずくすぶり続けているものの、かといってあるべき社会も自分の見取図も描けず、すべてのことが気に入らなかった。ことに大学で何かに打ち込みあたかも未来があるかのような顔をしている者たちを嫌悪した。どこに行こうと居場所がないことを意識する、それが踏み出しがたい明日に踏み出す構えといえば構えだった」(「週刊20世紀19 6 9」より)

【関連読書日誌】

  • (URL)“本が出たあと、事件は起こる” 『あとがきのあとで』 最相葉月 図書 2012年 09月号  岩波書店
  • (URL)“やはり人間は燃え尽きないために、どこかで正当に認知acknowledgeされ評価されappreciateされる必要があるのだ” 『災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録』 中井久夫 みすず書房
  • (URL)ナチス•ドイツの焚書は、世界の注目を集めた。最も早く、最も痛烈な非難の声をあげたのはフランスであった” 『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌 (新潮文庫) 』 角田房子 新潮社
  • (URL)箱庭療法はつまり、言葉にしないことに意味があるということなのか。では、言葉にしないことでなぜ回復につながるのだろうか。患者がいて、そばで見守る治療者がいて、共に箱庭を鑑賞する。そんな日々を重ねるだけでなぜ人が治るのか” 『セラピスト』 最相葉月 新潮社 (1/2)
  • (URL)“回復に至る道とはどんな道か。クラィエントとセラピストが共にいて、同じ時間を過ごしなから手探りで光を探す。心の底にひそんでいた自分でさえ気づかない苦悩、悲哀にそつと手を差し伸べる。一人では恐ろしい深く暗い洞窟でも、二人なら歩いて行ける” 『セラピスト』 最相葉月 新潮社 (2/2)

【読んだきっかけ】京都いきつけの書店で発見
【一緒に手に取る本】

絶対音感 (新潮文庫)

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セラピスト

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星新一〈上〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)

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青いバラ (新潮文庫)

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心のケア――阪神・淡路大震災から東北へ (講談社現代新書)

心のケア――阪神・淡路大震災から東北へ (講談社現代新書)

“気鋭の考古学者が挑んだ「日本人のルーツ」は、やがて 「神の手」の異名を持つ藤村新一へ 石に魅せられた者たちの天国と地獄。” 『 石の虚塔: 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』 上原善広 新潮社

石の虚塔: 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち

石の虚塔: 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち

世紀の大事件となった2000年に発覚した旧石器捏造事件.これまでスクープをものにした毎日新聞の記者によるルポルタージュを読んだことがあったが,この事件と,松本清張の短篇で描かれていた考古学の学者の世界,一連の発見を学問的におかしいと指摘していた,フランス帰りの考古学者,これらをつなぐ解説が欲しいと,長らく思っていた.日本の考古学を牽引してきた学者たち,それらは皆情熱をもって取り組んできた人たちなのだが,かれらの生き様に焦点を当てることによって,日本の考古学の特徴と問題点を明らかにする佳作.「路地」ものの作者だからこそかけたともいえるかもしれない.
見返しから

「世紀の発見」と言ゎれた岩宿遺跡を発見した相澤忠洋。
「旧石器の神様」と呼ばれた芹沢長介
気鋭の考古学者が挑んだ「日本人のルーツ」は、やがて
「神の手」の異名を持つ藤村新一
石に魅せられた者たちの天国と地獄。

P.38

鳥居龍蔵は一八七〇年(明治三)に徳島に生まれ、独学で人類学を学び、東京帝国大学助教授までのぼりつめた異色の学者だ。その激しい気性から東大を飛び出したものの、明治から昭和にかけて国内はもちろん朝鮮半島、中国、台湾、モンゴル、千島列島、サハリン、シベリア、ブラジル、ベルー、ボリビアなど、世界各地を精力的に調査した人本人類学の巨人である。調査にカメラを導入したのも、日本では鳥居が初めてだとされている。一九五三年(昭和二八)、八二歳で東京に没している。
 そんな鳥居だが、こと日本の旧石器時代の存在に関してだけは、ことごとく反対と批判を繰り返した。当時としては珍しく、海外での調査経験が豊富だった鳥居からすれば、極東の一島国である日本列島に人類がやってきたのは、縄文時代からだといぅ確信があったのだろう。

P.41 明石原人を発見した直良信夫

直良はその後、病を克服して三〇歳から学業に専念、五八歳でついに早稍田大学教授に上りつめ、一九八五年(昭和六〇)に八三歳で没している。この直良の悲運については、松本清張が「石の骨」という小説にしている。
 明石原人は、最近になってコンピューター解析にょり「原人ではなく新人だった」と否定されるのだが、それからも直良が人骨を発見した同じ地層から、旧石器時代の木片などが発掘されている。しかし、直良が入骨を採集した場所は海岸だったため、現在では波にょって浸食され、すでに海中に没していた。つまり「明石原人」の真相は、いまだ謎につつまれたままだといえる。
 「明石原人」の謎は、他の旧石器時代の地層から人骨が出てくれば解決されるはずだが、日本は酸性土壌で骨を分解してしまぅため、旧石器時代の化石人骨は、現在にいたるも沖_の島々以外の、日本本土では出土していない。

P.68

「ちんや」は、江戸席代、諸大名や豪商に狆(ちん)などの愛玩動物を納め、獣医も兼ねていたところから「种屋」と呼ばれて」いた。明治維新後の一八八〇年(明治一三)に料理屋に転じ、「ちんや」をそのまま屋号とした老舗だ。一九〇三年(明治三六)にすきやきを専門とするようになり、現在も雷門近くに店を構えている。すきやき屋が淺草に多いのは、明治に入って牛肉食が「文明開化」とされた折り、利にさとく食肉産業に詳しかった近江(滋賀県)の路地の者たちが、東京に移り住み、次々にすきやき屋を開業したためである。東京にある老舗のすきやき屋の多くが、近江牛を売りにしているのはこのためである。

P.111 「登呂の鬼」杉原荘介の師,「考古学の鬼」森本六爾

森本六爾は異色のアマチュア考古学者だった。当時では珍しくフランスへ遊学して林芙美子と浮名を流したこともあるほどで、そのドラマティックな人生は、後に松本清張の小説「断碑」のモデルとして描かれているほどだ。病弱で、寝込んでいた森本の口述筆記を担当したのは、まだ二二歳の杉原であった。杉原は「断碑」には「SJとして登場している。

P.123

実は、杉原が岩宿で掘り出したハンドアックス(握斧)は国の重要文化財に指定されているの^だが、相澤がそれ以前に発見している見事な槍先形石器や細石刃は、現在も重要文化財に指定さ口れていない。
 「岩宿遺跡の発見者は相澤忠洋」といぅことは教科書も認める周知の事実となつているにもかかわらず、岩宿出土の石器として国から認定されているのは、現在も杉原の発見した石器だけだ。

P.189

 そこまで掘れば地下水が出てきそぅだが、「水脈に当たれば水は出ますが、遺跡の出るところは昔から人が住んでいたところなので、いくら掘っても水は出ないのです」と言ぅ。またローム層は、火山灰が積もり粘土質になって固まったものなので、とても固い。時にはドライバーを使つて穴をあけてから掘ることもあつたという。

P.225 フランス流の本場の考古学を学んできた竹岡俊樹

日本に戻った竹岡が、やがて「考古学の異端児」となったのは、旧石器型式論という実証的で科学的な手法に注目したことでは、日本で唯一といってよいほど珍しい存在だったことはもちろんだが、それだけではない。現在、竹岡の所属している共立女子大には考古学部がない。さらに竹岡は一講師であり、正職についていない。

P.238 調査会社の経営者 角張淳一

事件が発覚する約三ヶ月半前の二〇〇〇年七月ニ四日、ついに角張は自らの会社アル力のHP上で「前期•中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」と題して、藤村の捏造を指摘する“起爆剤”となつた論文を一般に公開する。このときも角張は、何度も憲子夫人にも相談している。子供たちを含めた家族の生活に直接関わることだからだ。

P.248

 竹岡はその後、石器型式研究の確立にカを注ぎ、型式論についての難解な専門書から、読みやすい一般書までを執筆。さらには自らの研究手法を応用して、現代の社会問題であるオウム真理教」を読み解く試みなど、広く出版活動を行っている。「学問は、現代の問題に通じていなくてはならない」を信条とする竹岡らしい、異色の出版活動だ。

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“大日本帝国軍は大局的な作戦を立てず、希望的観測に基づき戦略を立て、陸海軍統合作戦本部を持たず、噓の大本営発表を報道し、国際法の遵守を現場に徹底させず、多くの戦線で戦死者より餓死者と病死を多く出し、命令で自爆攻撃を行わせた、世界で唯一の正規軍なのである。私が問いたいことはこうだ。 それは、正規軍と言える質だったのだろうか?” 『愛と暴力の戦後とその後』(現代新書) 赤坂真理 講談社

文庫化された『東京プリズン』を書店で見つけて購入.何か聞いたことがある程度の認識であったが,いろいろな賞を受賞していたことを知る.で,そうしているうちに本書を知り,購入.こちらから先に読み切る.改めて世代間格差ということを認識する.著者とはほぼ同世代であり,だからこそ,時代認識というか,育った時代への疑問が重なるのだと思う.終戦を5歳で迎えた人と,15歳で迎えた人とでは,時代認識が全く違うと言われる(小林信彦だったか)それと同様に,1950年生まれと1960年生まれとでは,安保に関する感覚が全く違うだろう.同時代を生きた人と,後から話しとして聞いた人の違いである.帯に

なぜ私たちは
こんなに歴史と
切れているのか?

『東京プリズン』の作家が
この国の《語りえないもの》を語る

学ぶことの多い一書であった.
まえがきより

 これは、研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろぅともがいた一つの記録である。
 それがあまりにわからなかったし、教えられもしなかったから。
 私は歴史に詳しいわけではない。けれど、知る過程で、習ったなけなしの前提さえも、危うく思える体験をたくさんした。
 そのときは、習つたことより原典を信じることにした。
 少なからぬ「原典」が、英語だったりした。

 これは、一つの問いの書である。
 問い自体、新しく立てなければいけないのではと、思った一人の普通の日本人の、その過程の記録である。

第1章 母と沈黙と私
P.25

 それは、自由と言えば自由な雰囲気なのだけれど、勉強することと性的存在であることの両方を、社会に求められるのはつらいものだ。それこそが社会から承認される道であることを肌身で知ることは。異国の人間には、特に。自分の身の安全が確認できないところで、性的であることは、危険でありうるからである。

P.34

ふたつの思考停止
A級戦犯が大物であり、いちばん悪い」という誤解は、アメリカが自国のプレスにした説明が簡略化されすぎていたから、という説がある。A級戦犯は国家指導者であり、B級戦犯は現場の、というように。ちなみにC級=人道に対する罪は、ナチス東京裁判ともいうべきニユルンべルク裁判での(というか東京裁判が東京版ニユルンべルク裁判なのだが)「ホロコースト」に相当するもので、日本での該当者はほとんどいなかった。
 B級は、通常の戦争犯罪、たとえば捕虜の虐待や民間人の殺戮で、当時の国際法で禁じられていた行為への違反である。従来、軍事法廷(東京裁判軍事法廷である)で裁かれる戦争犯罪と言えば、これだけだつた。
 通常の戦争犯罪以外に「平和に対する罪"A級」や「人道に対する罪=c級」があるというのは、第二次世界大戦後の概念であり、戦争史上の一大発明ではないかと思う。

P.37 真珠湾攻撃天皇戦争責任

私たちは忘れすぎた
『東京プリズン』を書く途上でわかったのは、しかしこの論点のずらし方こそが、東京裁判で勝者によって意図的に行われたことだということだった。それは私にとって、びっくり以上のものがあった。

第2章 日本語はどこまで私たちのものか
P.60 戦争を放棄する,の放棄は renounce

"Renounce the oath (誓いを捨てろ)"
renounceは厳密に「自発的に捨てる」という意味の動詞なのだ。abandon (見捨てる)とは違うし、through awayなどと口語的な言い方にも置き換えない。あくまでも、「自発的に捨てろ」と要求する。「自発的に捨てる」と本人に言わせるまでは、容赦しない。
 こういう単語が、私たちの憲法に、他者のしるしとして刻印されている。
 他者の言葉で、「私はこれを自発的に捨てる」と言うことほど、倒錯的なことはない。
 そのうえ、本人はそこまでのことを言った自覚を持たずに、国際社会にその言葉が流通するままにさせている。

p.61 侵略戦争 という訳語はどこから来たか

起訴状の原語は、こうである。
 War of aggression
私は、意外に感じたのだ。invasionなどとは言わないのだな、と。aggressionとは、「攻撃性」のことであり、受け身でなく積極的な攻撃性を意味するだろう。戦争に関して、「自衛」に対抗する概念なのかもしれない。攻撃を受けずに、攻撃を仕掛けること?
 aggressionの解釈にはいろいろな次元があるだろう。ひとつ言われるのは、先制攻撃をかけたほうが悪い、という考え方だというものである。
 これが転じて「侵略戦争」と言えなくは、ない。
 が、「先制攻撃」と「侵略戦争」の間には、かなりおそろしいほどの語感の開きがある。これが日本語になつて私たちの中に定着するものだから、日本語の語感の違いは、他ならぬ我々にとつて死活問題である。
 つまり、私たちは、過剰な訳語をつくつて、私たち自身それに過剰に反応をしている可能性がある。

P.72

 歴史と日本人がいちばん海外進出したのは、戦争の時代と、戦後の「経済戦争」と呼ばれた時代だ。曰本人が経済領域において、技術を武器に勝とうとしたのは、それが言語なき頜域に見えたからではないかとおもう。だがじつさいには、その前にヴィジヨンがあるべきで、ヴィジョンは大半の人が言語で構築する。それなしにやれたのは、その時代のアメリ力のヴィジョンがあまりに魅力的で、それの改良版を技術力でつくればよかったからであり,そうできる立場の国が、ほとんど曰本しかなかったからだ。
 ヴィジヨンとは本来、存在しないものを創る力だ。
 それは多くの頭の中ではじめは言語である。
 言語の最もすばらしい特質は、ないものを表現できるということだ。
 我々には今、ヴィジョンの力が要る。

第3章 消えた空き地とガキ大将
P.95

受験システムもそのひとつだ。受験勉強を一所懸命してもそれが受験以外のなんの役にも立たないことを、もう誰もが知っている。そのうえ、学校を出ても先の見通しが立たないことも知っている。しかし、いかにグローバリゼーションが叫ばれようと、国際競争力をつけることや交渉力の重要性がどのように叫ばれようと、日本人はこの選抜システムを手放そうとはしない。「就活」だつて同じことだ。

P.99

子供の遊びは、図式化すると次のようになる。
 共有(空き地で遊ぶ) → 私有(ファミコン) → 超私有(ポ―タブル)
 ガキ大将が人をまとめる場所がなくなつていく。
 私有財産は仕切れない。
 空き地が切り売りされて宅地になつていくのと、「子供の遊びが私有物になつていく」はパラレルだ。

P.101

 「ガキ大将の衰退と恋愛の衰退に関係があるよぅに思ってるんだけど?」
 「ああ、そぅかもね」
 と彼は答えたが、その核心として、意外なことを言つた。
 「どつちも交渉ごとだからね」

第4章 安保闘争とは何だったのか
P.108

 「日本経済がよかったとき」というのは、「世界におけるアメリカ一人勝ちの時代」だったのか!
 だからそれは、戻ってこない。どんなに日本ががんばろうと、アメリカに恭順の意を示そうと、それは戻ってこない!そのうえ、日本にはアメリカに恭順である以外の選択肢がない。その選択肢自身が、「自民党政治」と呼ばれてきたシステムなのではないのか?

P.111

 日本のテレビ史において、最高視聴率を叩きだした報道番組は、一九七ニ年の連合赤軍による人質籠城事件「あさま山荘事件」だ。
 学生運動の最後の表立った抵抗。NHKと民放を併せて89%超。NHKと大半の民放局が同じことをリアルタイムで放映したこと自体がもう、事件である。

P.113 学生運動がわからない

六〇年安保闘争の前駆期に、「砂川闘争」というのがあった。今の東京都立川市で起こつた、駐留米軍と国家とを相手どった住民運動で、学生運動の原点とも言われている。これは、日本の歴史上ほんの束の間、本当に「民衆」や「市民」という意識が日本で萌芽し、それが成功した事例ではないかと思う。住民や農民や学生たちが、米軍を立ち退かせたのである。これは記憶されていいことだと思うのだが。

P.115 浅間山荘の鉄球作戦

市川崑の記録映画『東京オリンピック』は、鉄球で東京を「壞す」シーンからいきなり始まる。オリンピックの前に、東京の街を、壊して、創り直すのである。そこに登場するのが、ゆらゆらと揺れてコンクリートのビルを打つ、大きな鉄球である。

P.124

 ここに影の力、第三の力が存在する。ソヴィエト連邦である。日米のダンスの、真の駆動力はソ連共産主義だつただろぅ。
 ソ連と、ソ連とアメリカとの冷戦がなければ、日本の戦後は、よりひ,どいことも含めて、こうではなかつたはずである。
 ジョン•ダワーの占領期研究が少し物足りないのは、この物言わぬ「第三のプレイヤー」の存在に対する目配りが少ないことである。

P.128

六〇年安保闘争――「国民の“戦争裁判”の側面
 調べてみると、六〇年安保闘争と七〇年安保闘争は、「安保闘争」という名前が同じだけで、ほとんど別物ではなかつたかと思えてくる。それは驚くくらいに。別種の人たちによって担われ、ちがうものに向けられた、ちがうエネルギーではなかったかと、思えてくる。
 名前が同じだとうっかり見過ごすのだが、両者は、担った人々がまるでちがう。
 六○年安保闘争を担ったのは、第二次世界大戦後を生身でくぐった人たちだった。
 七〇年安保闘争を担ったのは、戦争が終わってどっと生まれたべビーブーマーたちだった(「団塊の世代」も、なまじ漢字を当てはめたためにわかりにくくなつている言葉だ。)

P.138

 大日本帝国軍は大局的な作戦を立てず、希望的観測に基づき戦略を立て(同盟国のナチス•ドイツが勝つことを前提として、とか)、陸海軍統合作戦本部を持たず、噓の大本営発表を報道し、国際法の遵守を現場に徹底させず、多くの戦線で戦死者より餓死者と病死を多く出し、命令で自爆攻撃を行わせた、世界で唯一の正規軍なのである。
私が問いたいことはこうだ。
それは、正規軍と言える質だったのだろうか?

第5章 1980年の断絶

P.171

 投資とは、美人投票である。
 自分が欲しいから買うのではない。「みんながあれを欲しがるだろうから」買うのである。

第6章 オウムはなぜ語りにくいか
P.186

オウムの信者はいろいろな宗教を渡り歩いた人が多いのだが、オウムのよさと問われて異口同音にロにするのは、「修行体系がしつかりしていること」だ。

P.199

 壊滅的な「あれ」があった後でおおかたの人々が「何もなかった」よぅに暮らしていることは、本当に象徴的である。
 敗戦後の日本の姿、そのものではないか。

第7章 この国を覆う閉塞感の正体
P.223

 私はニ〇一一年度から文化学院といぅ学校で教師をしてきた。大正時代からあった日本最古の共学校で、私が職を得た当時、高等学校相当の課程と専門学校相当の課程があった(高等課程は、学校の経営が変わったことにょりニ〇一四年度から新規募集停止。残念でならない)。そこで感じてきたのは、高校生、おおむね十五歳から十七歳くらいまでのテイーンエイジヤーが、面白そうな大人(教師)を感知して寄つていく力の、すごさだ。

第8章 憲法を考える補助線
P.240

 「憲」って、本当にどういう意味なんだろう?
 たった一人、即答してくれた人がいた。その人はフランス文学者だった。
 「『憲』は、おきてという意味だから、憲も法も同じょうなことを言つていることになりますね」
なんてことだろう、「憲法」には、私たちが「憲法」と思つているような意味は本来、ない!

P.252

 それは、現行憲法でさえ、できたときは、今の「現代日本語」のようではなかったということである。たとえば「第七条 十 儀式を行ふこと」のように。
 これは、現行憲法の起草に関わった日本人たちの自然が、まだ旧仮名遣いであったということだ。そして、この憲法の起草過程には、「(日本語の)口語訳」係がいたという。作家の山本有三(『路傍の石』などの作者)が口語訳に携わっていた。
 ニつのこと力わ办る。
 1、日本語は、「戦後」と言われる時代の始まりにおいてさえ、いまだ今日のような言語ではなく、「今日のようになりつつある」生成途上だったこと。今の日本語は、ごく
 2、現行憲法は、英語からの翻訳だが、日本語内においてさえ「翻訳」を必要としたこと。それでもなお、旧仮名遣いは少し残つたこと。

エピローグ まったく新しい物語のために
『黒い海の記憶――いま、死者の語りを聞くこと』 山形孝夫 岩波書店

黒い海の記憶――いま、死者の語りを聞くこと

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『東北を聴く――民謡の原点を訪ねて (岩波新書)』 佐々木幹郎 岩波書店
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日本における近代国家の成立 (岩波文庫)

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”アーレントはカント講義のなかで、判断力が機能するためには人間の社交性が条件であり、人間は「精神的諸能力のためにも仲間に依存している」と語っていた。つまり複数で生きる人びとが共通感覚をもつためには、相互の仲間を必要とするといぅことである。判断は他者との関係のなかでおこなわれ、他者の立場から物を考える「拡張された思考様式」を要請する。判断力は、他者の視点から世界がどのように見えるかを想像する力を前提としている” 『ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 」』  (中公新書) 矢野久美子 

第六章 政治と思想
1 「論争」以後
P.195 

ベテルハイムは、『イェルサレムのアイヒマン』公刊後すぐに書いた長文の書評論文で、アイヒマン裁判で問題となっているのは犠牲者までをも巻き込んだ全体主義体制であり、それを反ユダヤ主義の最終章としてではなく、「技術志向の大衆社会」のなかで今後も生じる恐れがある全体主義の第一章として見なさければならない、と強調した。そして、この裁判は全体主義体制下の人間が自分の魂と生命を救いうるかどうかの分岐点が明らかになっていると書いた。アイヒマンは初めて絶滅収容所を訪問したとき失神しそうになったが、「自分の感情的な反応に注意を向けるかわりに」自らの義務として,割り当てられた仕事」を遂行しようとした。「これは、アイヒマンにとって戻り道のない地点であった」。

P.198

ヤスパースは、アーレントの著書が騒ぎになりはじめたころから一貫して親身になって彼女を支えていた。返事がこなくても手紙で励ましつづけている時期もある。彼は、彼女が「嘘にたてこもって生きてるあれほど多くの人のいちばん痛いところを衝いた」のだと述ベ、自分の発言がそうした人びとの「生きるための嘘」への攻撃ともなることに気がつかない彼女の「ナイーヴさ」に言及している。他方で、「レッシングにも似た」彼女の文筆家としての力量を称え、歴史的事実にかんして自身の知識やもっている情報や助言を惜しみなく提供した。
(中略)
ショーレムは、彼女の本に見られる「冷笑的で悪意に満ちた語り口」に異議を唱え、それがユダヤ人の受難や悲劇にとつてあまりにも不適切なスタイルであり「心の礼節」を欠くものだと批判し、「民族の娘」である彼女に「ユダヤ人への愛」が見られないことが残念だと述べた。アーレントは、自分は「民族の娘」ではなく自分自身以外の何者でもないと答え、さらには、自分が愛するのは友人だけなのであり、「なんらかの民族あるいは集団を愛したことはない」と書いた。また、政治における「心の役割」は真実を隠し、不愉快な事実を報告する者を責める状況にもつながると述べ、彼女自身の「大きな悲しみ」t見せるためのものではないとも伝えている。
(中略)
これらの諸論稿は、個人的には深い痛みをもたらした経験を心理的に解決するのではなく世界との関わりのなかで思考し、その意味を理解しようとするアーレントの姿勢を示してもいるだろう。
(中略)
「独裁体制のもとでの個人の責任」のなかで、アーレントは「公的な生活に参加し、命令に服従した」アイヒマンのような人びとに提起すべき問いは、「なぜ服従したのか」ではなく「なぜ支持したのか」という問いであると述べた。彼女によれば、一人前の大人が公的生活のなかで命令に「服従」するということは、組織や権威や法律を「支持」することである。「人間という地位に固有の尊厳と名誉」を取リ戻すためには、この言葉の違いを考えなければならない。

2 暗い時代
アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ(Angelo Giuseppe Roncalli)ヨハネ23世,ローマ教皇(在位:1958年10月28日-1963年6月3日)(Wikipedia, ヨハネ23世 (ローマ教皇), http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D23%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87) (optional description here) (as of July 9, 2014, 16:37 GMT). )
P,207 

ロンカッリは、謙虚で温和な人柄と他教会や他宗教との対話に積極的であつたことで知られている。アーレントは彼の『魂の日記』(一九六五年)の書評を書き、そのさいに記録や文献だけでなく伝え聞いた彼の言動に関する逸話も織り込んだ。一九六三年、ドイツの劇作家ロルフ・ホーホフートの戯曲で ローマ教皇ピウス 一二世のナチとの関わりとユダヤ人虐殺にたいする沈黙という歴史事実を描いた『神の代理人』が、アーレントの『イェルサレ厶のアィヒマン』と同様の激しい論争とカトリック教会からの反発を引き起こしていた。病床のロン力ッリはその書を読み、「どんな手が打てるか」という質問に「真実に対してどんな手を打てるのですか」と答えたという。アーレントはこのロンカッリ論をのちに『暗い時代の人々』の一つの章に組み入れた。

P,209 トンキン湾事件

現実、すなわちリアリティを欠いたまま歴史が進行しでいくことは、人問がみずからの尊厳を手放すことでもある。ところが、「問題解決家」と称するエリートたちによって,彼らの「理論」を優先する「イメージづくり」が熱狂的におこなわれた。事実や現実は無視されたのである

P.212 ヤスパース追悼式典でのアーレントによる追悼の辞

人間のもっとも儚いもの、しかし同時にもっとも偉大なもの、つまりその人の語った言葉や独特の身振りは、その人とともに死んでいく、でもそれらこそ私たちを必要とし、私たちが彼を忘れないでいることを求めているのです。追憶は死者との交わりのなかでおこなわれ、そこから死者についての会話が生まれ、それがふたたびこの世にひびきわたります。死者との交わりこれを学ばなくてはなりません、私たちはこの共同の追悼の場において、それをいま始めようとしているのです。(『アーレントヤスパース往復書簡3』)

P.216 

アーレントは「物語る」ということにたいして強い思い入れをもっていた。政治学会で自分の理論を「わたしの古風な物語り」(my old-fashioned story-telling)と呼んで、会員からほとんど無視されたことさえあった。「理論がどれほど抽象的に聞こえようと、議論がどれほど首尾一貫したものに見えようと、そうした言葉の背後には、われわれが言わなければならないことの意味が詰まった事件や物語がある」と彼女は言う。個々の事件や物語へと脱線し、多くの解釈が混在する「物語」よりも、理路整然とした論証のほうが理解しやすい、という知的先入見あるいは慣習のようなものがある。しかしそれだけでは人間の経験の意味を救い出すことはできない、と彼女は考えていた。アーレントは、「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、耐えられる」というアイザック•ディネセンの言葉をしばしば引用していた。

このディネッセンは,小説家で『愛と悲しみの果て』,『バベットの晩餐会』の原作の作者なんですね.
カレン・ブリクセン(Baroness Karen von Blixen-Finecke, 1885年4月17日 - 1962年9月7日)は、20世紀のデンマークを代表する小説家。デンマーク語と英語の両方で執筆し、デンマーク語版は本名のカレン・ブリクセン名義、英語版はペンネーム(男性名)のイサク・ディーネセンもしくはアイザック・ディネーセン(Isak Dienesen)名義で作品を発表した。作品によっては作品間の翻訳の際に加筆訂正がなされ、時には別作品ともいえる物になっているという複雑な作家である。現在のデンマークの50クローネ紙幣には彼女の肖像が使われている(Wikipedia, カレン・ブリクセン, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3 (optional description here) (as of July 9, 2014, 16:51 GMT). )
P.219

ヤング・ブルーエルは、アーレントが「思考」と「意思」の部分ではおもにハイデガーと対話し、「判断」の講義ノートではヤスパースおよびプリユッヒャーと共鳴していた、と書いているが、これは正しい指摘だと思う。ハイデガーは非凡な深みをもつが他者を欠く哲学者だったのにたいして、ヤスパースとブリユッヒャーは「判断力の範例」であった。アーレントはカント講義のなかで、判断力が機能するためには人間の社交性が条件であり、人間は「精神的諸能力のためにも仲間に依存している」と語っていた。つまり複数で生きる人びとが共通感覚をもつためには、相互の仲間を必要とするといぅことである。判断は他者との関係のなかでおこなわれ、他者の立場から物を考える「拡張された思考様式」を要請する。判断力は、他者の視点から世界がどのように見えるかを想像する力を前提としている。

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今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

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人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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戦争と政治の間――ハンナ・アーレントの国際関係思想

戦争と政治の間――ハンナ・アーレントの国際関係思想

”アーレントは戦時中の体験から、「世界は沈黙し続けたのではなく、何もしなかった」と考えていた。大量殺戮が始まる以前の一九三八年の「水晶の夜」にたいする各国の言論上の非難は、難民の入国制限を進めるといぅ行政的措置と矛盾していた” 『ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 」』  (中公新書) 矢野久美子  中央公論新社 (2/3)

第四章 1950年代の日々
1 ヨーロッパ再訪
2 アメリカでの友人たち
小説家,評論家のメアリー・マッカーシー(Mary Therese McCarthy, 1912年6月21日‐1989年10月25日)(Wikipedia, メアリー・マッカーシー, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC (optional description here) (as of July 9, 2014, 14:47 GMT). )とは生涯の友人であった.そして,沖仲仕の哲学者.エリック・ホッファー(Eric Hoffer, 1902年7月25日 - 1983年5月20日)(Wikipedia, エリック・ホッファー, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC (optional description here) (as of July 9, 2014, 14:50 GMT). )との交友.
なるほど,ホッファーね.何となくわかるような気がする.権威に依らず個に重きをなす立ち位置.
P.140

ホッファーによれば、世界の人間化、文明化は「衝動と実行との間隔」、「行動を起こす前のためらい」があって初めて実現する。ここでの「理解、洞察、想像、概念」とは、アーレントにおいては「思考」と置き換えられるだろぅ。ホッファーはそれらを可能にする「小休止」こそに「人間の生き残り」はかかっていると考えた。人間を自動化し自然化することは人間を予測可能な自動機械に変えることである。そのことを全体主義的支配者は理解していたし、現代社会でもその危険性は十分にある。思考や叙述のスタイルはまったく異なるが、ホッファーとアーレント現代社会にたいするまなざしには重なり合う部分があった。

3 『人間の条件』
P.145

さらにアーレントは、自分はとくにどの活動力を高く評価しているわけでもないと語り、自分はそのヒエラルキーの歴史的な変化を示そぅとしたのだと語っている。この書で彼女は人間の活動力を、労働labor、仕事work、活動actionに区別して考察した。

第五章 世界への義務
1 アメリカ社会
P.162 リトルロック高校事件(英:en:Little Rock Nine)(Wikipedia, リトルロック高校事件, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E9%AB%98%E6%A0%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (optional description here) (as of July 9, 2014, 16:00 GMT). )への発言が批判を呼ぶ

アーレントは、何よりもまず黒人と白人の結婚を禁じる婚姻法などの差別的法律を廃止し、政治的平等を実現するべきだと強調する。他方で、平等や同権は政治的領域の事柄であって、社会的領域ではエスニック集団の差異や職業や所得による集団間の差異は不可欠なのだと述ベる。彼女にとって重要だったのは、差別を社会的な領域のうちにとどめておくこと、「差別が破壊的な力を発揮する政治的な領域や個人的な領域にはいり込まないよぅに」することであった。しかしこの区別もまた、彼女独自の思考に基づいたものであり、社会的差別を容認するような保守的な響きをもつたのである。

2 レッシングをとおして
P.174

「思考の動き」のためには、予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ、あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて、思考の自由な運動は可能になる。レッシングの動きのある思考は、たとえ世界と調和しなくても世界に関わり、多様な意見が共存することを重視する。それは、人びとが結合したり離れたりするような距離をもっていることと連関していた。

P.177

この場合、「人間であること」の強調は差別と背中合わせだったのである。また、こうして「人間性」が掲げられる一方で、そこでの社会は、ドイツ的教養を身につけたユダヤ人だからこそ「例外」として受け入れたという事情もあった。すなわち、当時の人文主義は、ユダヤ人を自分たちと同じ「教養」をもちながらも「ユダヤ人」である者として、さらには「抑圧された民族からの出身」であり「特殊性」を帯びた、「人類の新しい見本」として受け入れたのである。したがって、そのようにして受け入れられた教養あるユダヤ人たちは、ドイツ社会での「例外」であると同時に、ユダヤ民族のなかの「例外者」でもあった。

『マラーノの系譜』ですね.
P.178 レッシング賞受賞講演より

「ユダヤ人」といぅことでわたしが意図したのは、歴史的な負荷あるいは特徴をもった実在といぅことではなく、政治の現在形を認識することにほかならなかったのです。そこで命じられていた帰属のかたちは、まさしく個人的アィデンティティの問題を、匿名という意味で、すなわち無名という意味で決定づけていました。

3 アイヒマン論争
P.188

アーレントは戦時中の体験から、「世界は沈黙し続けたのではなく、何もしなかった」と考えていた。大量殺戮が始まる以前の一九三八年の「水晶の夜」にたいする各国の言論上の非難は、難民の入国制限を進めるといぅ行政的措置と矛盾していた。「ナチが法の外へと追放した人びとはあらゆる場所で非合法となった」のである。アーレントはナチの先例のない犯罪を軽視しているわけではけっしてないが、ナチを断罪してすむ問題でもないと考えていた。また、加害者だけなく被害者においても道徳が混乱することを、アーレント全体主義の決定的な特徴ととらえていた。アイヒマンの無思考性と悪の凡庸さという問題は、この裁判によってアーレントがはじめて痛感した問題であった。アーレントは裁判以後にこの問題をあらためて追及することになる。

P.190

亡命や無国籍状態、伝統との断絶といういくつもの亀裂を経験したアーレントにとって、個々の友人とのつながりだけが「生の連続性」を肯定するものだった。一九四五年、彼女はニューョークからイェルサレムのブルーメンフエルトに次のように書いたことがあった。

昔の友人に再会する不安は、わたしにはよく分かる。わたしたちのようなボヘミアンの場合、つまりどこにも根をもたなくて、だから自分の環境世界を持ち歩いているようなもっと正確にしえばそれをしつも新たに作り出すことを必要とせざるをえないようなそうした人たちの場合、この普通に人問的で自然な不安から簡単にパニックが生じてしまう。自分たちの感受性が(比喩的にいえば)蔵檐にも家財道具にも守られていないということが分かっているから。 (ブルーメンフヱルト宛書簡、八月二日)

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今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

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人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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戦争と政治の間――ハンナ・アーレントの国際関係思想

戦争と政治の間――ハンナ・アーレントの国際関係思想

“アーレントはナチズムやスターリニズムの終焉後も生き残りうる「全体主義的な解決法」(複数性の抹消)にたいして警告を発しつづけたのだった”  『ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 」』  (中公新書) 矢野久美子  中央公論新社 (1/3)

ハンナ・アーレントの伝記,解説として,出色の本.
最晩年のハンナ・アーレントの写真は,晩年の加藤周一の風貌を思わせる.加藤周一アーレントも,きっとどこか接点があるだろうな.
今日(2014.7.9)の朝日新聞朝刊でも,ハンナアーレントが扱われていた.映画『ハンナ・アーレント』があれだけ評判をよび,アーレントが読まれているあたり,まだすてたもんじゃないと思う,
『イェスラエルのアイヒマンを書いたアーレントは,ユダヤ人から猛烈な批判を浴び,友人も失った.それは,『夜と霧』を書いたヴィクトール・E・フランクルがオーストリアで批判にあったのに似る.人類が引き起こしてしまった悲劇を,自分とは違う特別種類の人たちによる特別な出来事ととらえるのか,同じ「人間」としての悲劇だととらえるのかの違いであろう.
帯より

全体主義の起原』『人間の条件』などで知られる政治哲
学者ハンナ•ア^―レントニ九◦六―七五)。末曾有の破
局の世紀を生き抜いた彼女は、全体主義と対決し、「悪
の陳腐さ」を問い、公共性を求めつづけた。ユダヤ人と
しての出自、ハイデガ礀との出会いとヤスパ礀スによる
蕉陶、ナチ台頭後の亡命生活、アイヒマン論争――。幾
多のドラマに彩られた生涯と、強靭でラデイヵルな思考
の軌跡を、_細な筆致によって克明に描き出す。

第一章 哲学と詩への目覚め 1906-33
1 子供時代
2 マールブルクハイデルベルクでの学生生活
3 ナチ前夜
第二章 亡命の時代
1 パリ
P54 ヨーロッパで財をなしていたユダヤ人富裕層,「長老会議」について

また、慈善団体をいくつももっていたが、慈善事業として資金援助はしても政治的に行動することを忌避し、反ユダヤ主義から避難してきたユダヤ人たちを同胞としては見なさなかった。彼らは、早い時期の知識人亡命者たちのことも「博士様、たかり屋様」と呼び、嫌悪感を隠さなかったが、激増するユダヤ人難民にたいしては、自分たちが同化してきた社会の反ユダヤ主義を高めるとして、厄介払いするような雰囲気もあつたのである。

2 収容所体験とのベンヤミンの別れ
第三章 ニューヨークのユダヤ人難民 1941-51
1 難民として
P,84

アーレントは、「世界でいまあまり好かれていないユダヤ人」にとって必要なのは、感謝を求める同情や慈善事業ではなく、ユダヤ人にたいする宣戦布告をヨー ロッパ諸民族の自由と名誉にたいする攻撃だと見なしてくれる戦友なのだ、と述べている。ア―レントによれば、恩人の政治方針に賛成できなくなったときそれに反対することは、勇気ある行為だった。「反ユダヤ主義者のあからさまな敵意ょり、尊大に感謝を要求したげな庇護者の身ぶりのほうが、ぐさっとくるのです」。これが、アーレントにとって、アメリカの地での最初の論稿になった。

2 人類に対する犯罪
P.89

一九四三年にアメリカでこのアウシユヴィッツッの嚼を聞たとき他の多くの亡命者たちと同様にアーレントは最初それを信じなかつたといぅ。ブリユッヒャ―もアーレントも日ごろから「連中は何でもやりかねない」と言っていたにもかかわらず、二人とも信じることができなかったのである。

P.96 ドイツにおいて,敗戦の意味をわからせることさえ難しかった

アーレントはこれにたいして、「ひとたびすべてが〈政治化〉されてしまうと、もはやだれ一人として政治に関心をもたなくなる」と述べている。すべての人びとが全体的支配に巻き込まれ、総力戦を戦うとき、選択や決断や責任にたいする自覚が失われる。

3 『全体主義の起源』
P.105 (The Origin of Totalitanism)について」

精神科学における方法。因果性はすべて忘れること。その代わりに、出来事の諸要素を分析すること。重要なのは、諸要素が急に結晶した出来事である。私の著書の表題は根本的に誤つている。『全体主義の諸要素(The Elements of Totalitarianism)』とすべきだった。 (『思索日記礀1950-1953』)

なぜ因果性を忘れなければならないのだろうか。アーレントにとって最も重要だったのは、人間の無用性をつきつけたガス室やそれを実現させた全体的支配という出来事の「法外さ」と「先例のなさ」を直視すること、そして「政治的思考の概念とカテゴリーを破裂させた」その前代未聞の事態と向き合うことだった。アーレントにとって理解とは、類例や一般原則によって説明することでも、それらが別の形では起こりえなかったかのようにその重荷に屈っすることでもなかった。彼女にとって理解とは、現実にたいして前もって考えを思いめぐらせておくのではなく、「注意深く直面し、抵抗すること」であった。従来使用してきた力テゴリーを当てはめて納得するのではなく、既知のものと起こったことの新奇な点とを区別し、考え抜くことであつた。

P.108

宗教的なユダヤ人憎悪とは異なる反ユダヤ主義(反セム主義、アンティセミティズム)は、社会や政治の同時代的な問題状況と並行して現れた。そのさい反ユダヤ主義は、ナショナリズムの昂揚期ではなく、国民国家システムが衰退し帝国主義となつていく段階で激化したということが鍵となる。

P.110

アーレントによれば、余剰になった富とともに、失業してヨーロッパで余計な存在になった人間が植民地へと輸出され、彼らは自分たちを支配的白人種として見なすという狂信に陥った。余計者として国外へと出た人間がそこで出会った人びとをさらに余計者と見なすといぅ構図が生じたのである。また、帝国主義時代の官僚制支配では、政治や法律や公的決定にょる統治ではなく、植民地行政や次々と出される法令や役所の匿名による支配が圧倒的になつていった。

P.114

アーレント全体主義下で遂行された「人類に対する犯罪」を人間の複数性にたいする犯罪であると見なした。人間の複数性とは、共同体に属して権利をもつこと、交換可能な塊に還元されないことと連動するだけではない。ヤング=ブルーエルも強調していることだが、それは、「複数である人間によって複数である人間について語られた物語のなかで真実性をもって記憶される権利、歴史から消されない権利」にも結びつく。これらの要素を分析し、考察しつづけながら、アーレントはナチズムやスターリニズムの終焉後も生き残りうる「全体主義的な解決法」(複数性の抹消)にたいして警告を発しつづけたのだった。

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暗い時代の人々 (ちくま学芸文庫)

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イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

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“道具は消費财ではないのだ。だから飽きるということと無縁だ。毎日使う庖丁を,自分で手入れすることはかけがえのない実生活に差し向かうということでもある” 『有次と庖丁』 江弘毅 新潮社

有次と庖丁

有次と庖丁

 大阪,京都の伝統によって守られている,庖丁の歴史.新潮社「波」に連載されていたものが,多くの魅力的な写真とともに本になった.単にしらべてまとめただけの本ではない.長く,大阪,京都の地に生活していた著者だからこそかけた本であろう.庖丁が欲しくなる,使いたくなる本でもある,
第1章 京都・錦市場の「有次」
関東から関西へ来て最初に戸惑うのが,きつねそば,たぬきうどんの無いことである.メニューに,きつねとかたぬきと書いてあって,うどんなのか,そばなのか分からないのである.ところがことははるかに複雑であった.
P.19 大阪と違う京都のややこしさ

たとえば「きつねうどん」と「たぬきそば」の話。甘辛く味付けした揚げをのせるきつねうどんは、全国どこのうどん屋でもグランドメニューとしてある。このきつねうどんに関しては、明治二十六年(1893)創業の大阪・南船場〔松葉家本舗〕(現〔うさみ亭マツバヤ〕)発祥が通説だ。きつねうどんは大阪・南船場から全国に広がった。そして本場・大阪では、うどん屋で「たぬき」といえば「きつねうどん」の「そば」バージョンである。
 けれども京都では事情がまったく違ってくる。大阪の「たぬき(そば)」は京都では「きつねそば」なのである。京都で「たぬき」というのは刻んだ揚げを具にして「あんかけ仕立て」にしたものだ。したがって「たぬきうどん」も「たぬきそば」もある。うどん王国の大阪人からすると、京都の「たぬきうどん」をしいてメニユー的に言うと「きざみのあんかけうどん」のはずであり、「そんなアホな」であるが、京都の友人から言わせると「それは、大阪が間違うてる」である

P.33 

 赤穂浪士大石内蔵助が世間を欺くために遊んだとされる「一力亭(茶屋)」は,本来「万亭(屋)」であり,「万」の字の「一」と「力」を離して「一力」にしたという.山村さんに[一力亭]からの「暖簾分けの暖簾」を見せてもらったことがあるが,真ん中に大きく染められた意匠文字は紛れもなく「万」である。
 日中戦争の最中、策謀渦巻く上海で阿片密売を仕切る「里見機関」を設立し、敗戦後民間初のA級戦犯容疑者となったフィクサー里見甫が、京都に潜伏していたとき、この〔万イト〕に入り浸っていたという話は、『阿片王満州の夜と霧』(佐野眞一著/新潮社)に詳しく書かれている。当時、少年だった山村さんも「いつも人きな志那鞄を持った周さんという中国人の豪商とジープで来てました」と回想する.

第2章 親戚の家の3本
第3章 「有次」のルーツをさぐる
P.67

 古代より良質な砂鉄が豊富で、それを原料にした「たたら」製鉄による玉鋼の長い伝統を持つ出雲地方は、庖丁はじめ高級刃物用鋼の代名詞となつている「安来鋼」の生産地である。近代的な日立金属安来工場がつくる刃物鋼は、不純物を極力低減した純粋な炭素鋼の「白紙」,タングステンやクロムを加えて熱処理特性や耐摩耗性を改善した「青紙」、それに錆びにくいステンレス系の「銀」といつた製品が知られている(「ヤスキハガネ」も「白紙」「青紙」「銀」も日立金属の登録商標である)。「有次」の庖丁も、その多くがその「白紙」や「青紙」を使つたものだ

第4章 庖丁屋としての「有次」へ
P.75

 京都の名だたる料理人、錦市場のフグ専門店や鰻屋などのプロの問で「よく切れる」「一生使える」と絶賛される〔有次]の庖丁の名声は、長年かけて獲得された。それは堺の鍛冶師である沖芝昂(のぼる)さん(84歳)が鍛造した、数々の庖丁によるものであるといっても過言ではない

P.79

 戦国時代の鉄砲、そして徳川時代初期「堺極(さかいきわめ)」印で幕府専売品として一世を風靡した煙草庖丁が、現在の打刃物庖丁の技術の基礎となっている。
 全国で「庖丁といえば堺」と定評になったのは、享保年問に煙草庖丁で他の産地を圧したこの「堺極」ブランドがあつてのことである。非常に硬くて切れ味鋭く石でも割れるとのことから「石割庖丁」と称されたほどだ。

P.80

 ちなみに、各の前で板前がパフォ―マンスよろしく新鮮な刺身を引き、美しい野菜を切る……といった庖丁捌きを見せる割烹スタイルの料理店は、大正十三年(1924)創業の大阪•新町廊の〔浜作」が嚆矢である(『カウンターから日本が見える――板前文化論の冒険』伊藤洋一泎・新潮社社)。新町の〔浜作〕はすでにないが、その系譜は現在も銀座本店〔浜作〕,京ぎをん〔浜昨〕と引き継がれている。

P.81

 ともあれ、大正になって京都から堺へ移った沖芝吉貞氏は、鋼と軟鉄を合わせる堺の伝統打刃物の庖丁の世界に、刀剣づくりの高い作刀技術を持ってきて、それを息子の昴さんが受け継いだのであった。
「いま“本焼き”は沖芝さんがやってくれてるんだけども、ほかの職人さんでは、ちょっとできない」(寺久保社長)
 まさに堺に日本刀の技術を持ってきた刀匠沖芝家伝来の名工の技である。そしてすでに美術品に変わっていたとはいえ、その優れた作刀技術を和庖丁に生かせると見抜いた〔有次〕は、地元京都の京料理のプロの世界で、圧倒的にな評価を得るようになる。

第5章 〔有次〕と堺
P.89

堺の伝統工芸である打刃物による庖丁づくりは分業制になつている。すなわち「鍛冶屋」が庖丁を鍛造し、「刃付け屋」が刃を付ける。刃を付けるというのは鍛冶屋で鍛造した半製品を研いで磨いて庖丁という製品にすることだ。柄は「柄屋(えいや)」、これもまた別の柄づくり職人が製作する。そして通常は、3つの業者や職人をアレンジした「産地問屋」が刃付けされた庖丁に銘を切り、柄を取り付けて完成品にして出荷する。これらのベースはどれもほぼ手代事で、だからこそ大量生産は不可能だ。

P.91

 魚の頭や骨を叩き切り捌くための出刃包丁,身を引き切り刺身にする柳刃包丁は、いずれも「菜刀(ながたな)」つまり菜切り庖丁から生まれているが、宝暦四年(1754)の『日本山海名物図絵』巻之さんには「堺庖丁」のページがあり、「出刃・薄刃・指身庖丁・まな箸・たばこ庖丁。いづれも皆名物なり」とl記されていて、江戸時代中期にすでにいろんな用途の庖丁が堺では製造されていたことがわかる。
 なかでも出刃庖丁は、それより半世紀前、上方町人文化が花開いた元禄時代には完成していたと言われる。これは大阪湾に臨む堺の名産であった鯛を捌くため専用に出来た庖丁と言っていい。

第6章 錦市場祇園の味。庖丁づかいの現場
第7章 大阪の〔有次〕
 福喜鮨
P.137

〔有次〕の庖丁については、「切れ味がいいし、研ぎやすいのが良い」と指摘する。というのも〔福喜鮨〕では、魚を捌く際の出刃庖丁は仕上げを「二枚刃」(二段刃とも言う)にする伝統があるからだ。二枚刃は庖丁を研ぎ終えて仕上げる際、切刃の先端のほんの少し(1mm前後)を鈍角に研ぐことで付ける。これで硬くて太い鯛の骨やアラ煮きにする頭などを叩き切る庖丁の刃が、欠けたりこぼれたりしにくくなる。

第8章 〔有次〕の蕎麦切庖丁
 北新地・喜庵,先斗町・有喜屋
第9章 板前割烹の誕生
第10章 海外へ
 東山・イル・ギオットーネ
第11章 ものをつくる、ということ。
 赤坂・燻
あとがきー庖丁という道具

道具は消費财ではないのだ。だから飽きるということと無縁だ。毎日使う庖丁を,自分で手入れすることはかけがえのない実生活に差し向かうということでもある。そういうふうに思いながら、世界一切れる〔有次〕庖丁に魅せられて本を1冊書く羽目になつた。

【関連読書日誌】

  • (URL)“それも全部、自分たちが飲み込みながら次にバトンを渡さなければいけない。そのときに“ノー”と言う姿勢で何かを渡せるかというと、何も渡せないんです” 『有次と包丁』 第10回 江弘毅 波 2013年 09月号 新潮社

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

“だからどうすべきかは政治家に任せるべきだという意見をしばしば耳にします。 それは、学者にとって楽な生き方です” 『リスクと向きあう 福島原発事故以後』 中西準子, 河野博子 中央公論新社

リスクと向きあう 福島原発事故以後

リスクと向きあう 福島原発事故以後

中西準子さん(紫綬褒章も受章している大先生です)のお名前は、30年前から存じていました。『都市の再生と上下水道』の著者として。東大都市工学科の助手でした。水俣病の問題に取り組んでいた宇井純氏と同じ都市工学科です。当時、推進されつつあった、流域下水道施設の問題点を指摘し、あるべき上下水道の姿を提案している方、という認識でした。その後、横浜国立大学の教授を経て、産業技術総合研究所のセンター長を歴任していることだけは、知っていました。お仕事の内容や、経緯などは知りませんでした。
 5年ほど前でしょうか、ジョン・F・ロスという人の『リスクセンス―身の回りの危険にどう対処するか』(集英社新書) という本を読んだ折り(たいへん勉強になる本でした)、中西さんがリスク管理ということに取り組んでいて、専門書をたくさん出していることをしりました。いろいろなことが複雑に絡み、リスクを定量的に評価することが容易でないような事象について、どのようにリスクを扱うか、ということが焦点でした。中西さんが、原子力のリスクをどう考えているのか、は気になっていました。流域下水道の問題は、大手建設業者、公害企業、行政との闘いであったと私は思っていましたので、類似の構図を持つ原子力についてリスク管理の視点からどのような見解をもっているのだろうかと思っていました。
 そこへ3.11です。3.11の新聞記事か雑誌かのどこかで、中西さんが、認識が甘かった、というような反省の弁を述べている、ということを読みました。そこで、今回、書店で発見したのが本書です。
はじめに、より

しかし、原子力発電のことは、日本ではそれほど大きな事故はおきないだろうと考えて、まじめに取り組むこともありませんでした。今回の事故で驚き、自分の不明を恥じ、遅ればせながら、この問題に真剣に取り組むことにしました。それが、第I部「福島原発事故に直面して」です。第Ⅱ部は、私のこれまでに歩んできた道をふり返ったもので、ニ〇一一年一一月から一二月にかけて読売新聞にニ七回にわたって連載された「時代の証言者リスクを計る-中西準子」をべースに膨らませ、再構成したものです。

中西先生は、真理に向かって誠実に取り組んできた研究者であり、そして今もその営みを続けておられることが、たいへんよくわかります。幸せな未来は、こうした真摯で誠実な取り組みの中からしか生まれないであろうと思うのです。
原子力のリスク評価について、積極的に意見を述べてこなかった理由について、

その理由は、原子力発電に反対だったからではありません。そうではなくて、学者やジャナリストなどの有識者が、あまりにも原発推進と反対に二分されていたからです。

3.11後、チェリノブイリへ調査・取材に行きます。

難しいのは、そのことを研究していて間違つたということではなく、そこから逃れようとしていて、したがって、きちんと勉強しない、それでいて、やはり一定の判断をしていたということです。この判断は間違っていたと思います。では、どうすればよかったか、原子炉の構造や炉内の反応については専門でないから、発言すべきではなかったと考えるべきでしょうか。
(略)
だからどうすべきかは政治家に任せるべきだという意見をしばしば耳にします。
 それは、学者にとって楽な生き方です。たしかに、学者が安全を保証することがおかしいというのも正論です。「自分の専門外だから言えません」という場合もあるでしょうし、また、「自分の専門ではありますが、動物試験で影響は見られたものの、人への影響はあるかもしれないし、ないかもしれないという状況ですので、結論的には人に影響がある可能性が高いとしか言えません」という場合もあるでしょう。こういう言い方でいいなら、学者という立場は気楽です。また、良心的と評価されるかもしれません。確実に安全とは言えないのだから、危険の確率は必ずあると言えばいいのでしょうか?

P.13 チェリノブイリでも、飯舘村のように、はるか離れた遠いところにホットスポットがある。これが、原子力事故の特徴。
P.20 厳格コントロールから外れた地域に、甲状腺癌の子供が多い。
P.26 長年のパートナーが末期癌になって、「近藤(誠)さんの本って、自分ががんになってしまうと、遠い世界の話のような気になるね」
P.32 「直線しきい値なしのモデル」が罪深く思える時。なぜなら、それが科学的真実であるとしても、不安を助長してしまう。

 ただ、放射線が特別なリスクであると考えるのは間違っています。それによって、何が起きるかはほぼわかっているのですから。低線量の影響がはっきりしない、放射線の影響がわからないからというようなコメントを出す識者も多いてすが、それも違います。ここまで影響がわかっているものは少ないのです。原爆が投下され、被ばく者の追跡調査が六五年続いているのです。他の物質でこれだけのデ―タがあるはずがありません。また、国連科学委員会や国際放射線防護委員会(ICRP)を支えた研究者の努力で、ペクレルという放射線の活性を、シーベルトという健康影響に換算していくプロセスなどについては、臓器ごとに影響を調べていて、とても化学物質ではできていないことをしているのです。こういうことを知ってもらって、数字どおりのリスクだということを理解してほしいです。識者の方は、過剰に怖がらせるような発言はゆめゆめ慎んでほしいです。

P.36 損出余命 リスクを算定する尺度
P.39 化学物質のリスク評価 閾値モデルが一般的であったのであるが、

しかし、事情が一変したのは、かなりの数の発がん性物質があることがわかり、発がん性物質の場合、その用量反応関係には、放射線と同じ、直線しきい値なしのモデルの適用を米国政府が採用したからです。このことにょって、どこまでいってもリスクはゼロにはならないといぅことになりました。リスクゼロにするためには、使用を全面禁止しなければならない、しかし、使用を止めることができないといぅことで、どの位のリスクを許容するかが、それぞれの発がん性物質について議論され、提案され、ある場合には裁判になり、決まっていつたのです。

P.76

 個人に降りかかるときのことを考えて
 リスク評価研究をしていて、実は気の重いことがあります。それは、非常にささやかなリスクを語ることで、暴露したかもしれない人の不安を大きくし、また、差別を呼び込んでしまうことです。そのことガリスクを表に出すことで起きてしまうことガとても辛いです。今回のことで言えば、福島の女の子たちが、そういう差別という被害を受けているかもしれないと思うと、考えてしまうのです。

第二部は読売新聞に連載されていた、自身の人生の歴史。修士発表の時の写真に写る姿は、今話題の 小保方さんににていなくもない。
P.129 1971年下水処理場の調査結果について 

調査の成果を発表したいと思った当初、下水道関係のどの雑誌も誌面を提供してくれなかった。知人を通じて紹介してもらった新聞記者にも話しましたが、やはり記事にはなりませんでした。『公害研究』に載せてもらえたのは、宇井さんがいたからです。でも、『公害研究』の編集部も、編集代表だった都留重人さんや、戒能通孝さんは反公害の政治的な論文がいいと思っていて、こんな技術の報告は重要だと思っていなかったらしいです。編集に携わっていた宇井さんと、華山謙さん、岡本雅美さんら技術系の人たちが「これは非常に重要だ」と頑張って、掲載されたそうです。

P.188 日本人が摂取しているダイオキシンの6割は魚由来。80年代までに使われた農薬の影響。除草剤CNPに混入していた不純物がその源。
P.199 安全評価も国際競争  ナノ材料のリスク評価
    「新しい技術はリスク評価結果と一緒に世に出されるべきだ」
おわりに 聞き手 河野博子氏による

 下水道から環境リスク研究へ。『都市の再生と下水道』を書いた著者の歩みを追ぅことで、循環型社会、持続的発展を実現する道筋が見えてくるのではないか、と考えた。インタビューや補足取材を重ねるぅち、見えてきたのは、下水道や水問題に取り組んでいたころから、環境リスク評価を専門とするまでの中西さんの歩みに一貫しているいくつかの点だ。
 まず、常に「対案」を提示する。そして、環境問題は、生産の方法を変えることにより解決されるという考え。そして、何よりも、「けつして逃げない」という姿勢が根底にある。

【関連読書日誌】

  • (URL)“むしろ専門的知識や技能を棚上げにして、現場に身をさらすこと。そのときに初めて、付き添いさんの知恵というか、眼力の要となるところがおぼろげながらも見えてきます” 『語りきれないこと 危機と傷みの哲学  (角川oneテーマ21) 』 鷲田清一 角川学芸出版
  • (URL)“技術の固まりであるはずの、国策としての原発が、結果的には「偶然」に救われたことになり、とても正気の沙汰ではありません” 『日本は再生可能エネルギー大国になりうるか』  (DIS+COVERサイエンス)  北澤宏一 ディスカヴァー・トゥエンティワン

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

リスクセンス―身の回りの危険にどう対処するか (集英社新書)

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環境リスク学

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原発事故と放射線のリスク学

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水の環境戦略 (岩波新書)

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“青春小説---と思いきや、XXXからXX行目(絶対に先に読まないで!)で、本書はまったく違った物語に変貌する” 『 イニシエーション・ラブ』  (文春文庫) のカバーより 乾くるみ 文藝春秋

ライトノベルの類のものを読むことはないのだが,「これだけは」と薦める声をあまりに多く聞く昨今なので読んでみました.とはいえ,初刷り2007年ですから,今頃また話題になるというのも不思議ものです.読み終えたところで2度目を読まずにはいられない,という本を最近読んだばかりなので,(ケイト・モートン『秘密』),この本も同じことが言われており,読み比べてみたいというのもありました.しかし,よくよく考えてみると,本書は決してミステリではなく,あくまでもライトノベル風の恋愛小説であり,そこのちょっとした仕掛けが施されているというところです.その仕掛けは,あくまでもちょっとしたいたずらなのか,深い哲学が裏にあると読むのかは,いろいろでしょう.
 同じ静岡県人であったことや,ほぼ同世代ということもあり,なかなか楽しませてもらいました.静岡県人であるところにヒントがあるともいえますが,それを言われても静岡県人でさえ,なんのことかわからないでしょう.ちょっとした仕掛けにほころびがみられないのは,さすが数学科出身の著者といえるかもしれません.著者は男性のようですが,「便秘」とくるあたりはなかなかすごいと思いました.
 文庫本の表紙の裏側に,あらすじみたいな紹介文が載りますね.ここにネタバレになるようなことは当然のことながら書いていないのですが,絶対先に読んではいけない部分が,どこなのかが,書いてあるのです.これはたいへん困りました.きになって本文が読めないのです.反則ぎりぎりではないでしょうか.うっかり開けてしまったらどうするのでしょう?ですから,この本を買った人は,まず,カバーを捨ててから読み始めることをおすすめします.
 解説や,帯の宣伝文句がなかったら,なにも気がつかずに読み終えてしまう読者もいるのではないでしょうか.単行本時に解説はあったのでしょうか.
【関連読書日誌】

  • (URL)“秘密というのは秘密のままにしておくのが難しい。秘密は心の被膜ぎりぎりのところに身を潜めていて、それを抱える人の決意にひび割れを見つけるや、そこからいきなり這い出してくるのだ” 『秘密』 (上・下) ケイト・モートン 訳:青木純子 東京創元社

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

イニシエーション・ラブ (ミステリー・リーグ)

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謎解き『イニシエーション・ラブ』

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セカンド・ラブ (文春文庫)

セカンド・ラブ (文春文庫)

“「限界の学習」ということで話が終わっているなら、ここまで心 に響く物語にはなるまい。そうした学習を遂げたあとに、人はどうふるま うのか。イシグロはつねに、そこにも目を向ける。” 柴田元幸 蜷川幸雄演出『わたしを離さないで』上演プログラム

蜷川幸雄演出『わたしを離さないで』上演プログラム
Kazuo Ishiguroの小説“Never let me go”(『私を離さないで』)が,映画化された時,その映画パンフレットに,蜷川幸雄が舞台化を考えているということが書いてあったと記憶している.あの小説が書かれたこと自体が驚きで,さらに映画化されたことも驚きであったのだが,いったいどのように舞台化するつもりなのか,本当なのか,とこの3年間思い続けていたのが,ついに上演されたのである.
 2度の休憩を挟んで,4時間の芝居である.主演は多部未華子
 -(URL)彩の国さいたま芸術劇場開館20周年記念
『わたしを離さないで』 英国最高の文学賞ブッカー賞受賞作家カズオ・イシグロの傑作に、
蜷川幸雄が挑む!

 映画以上に原作に忠実な脚本であったかように思う.この小説,芝居の恐ろしさは,到底あり得ない世界をあたかも日常であるかのように平然と描いている点である.はじめて見る(読む)人は,最初はそのことに気がつかない.読み進めるうちに,徐々にこの異常な光景,設定に気がつき,愕然とし,それでも淡々と続けられる物語に飲み込まれてゆく.
 しかしながら,異常とも思えたその世界は,実は私たちの日常と本質的には何ら変わりがないことに,改めて気がつかされる.僕らの世界を改めて見直すきっかけを与えてくれる,そんな作品である.大学生に向けて生命倫理,科学技術論を語る時,読んで欲しい文献の一つに必ず加えるのだが.
 プログラムにある,銀粉蝶の文章より,

クローンや臓器の細胞培養など最先端の科学技術を扱ってはいますが,
この作品の主題は、人間にとって根源的な「さびしさ」にあるのでは,と
私には思えてなりません。ひとりぼっちで生まれ、そして、ひとりで死ぬ.
どんなにテクノロジーが進もうと,その「さびしさ」から人間は逃れられな
い。でも、それは決して悲観するようなことではないと思う。どんな芸術
も、その「さびしさ」に真正面から向き合うことで生まれたのだから.観
客の皆様もぜひ劇場で「さびしさ」に対峙する贅沢な時間を過ごしてい
ただけたら嬉しいです。

 また,柴田元幸さんは,“カズオ・イシグロの世界”という文章を寄せ,「わたしたちはみな執事だ」と言ったカズオ・イシグロへのインタビューをひきつつ,『これは「世界が子供のころ考えていたほど美しくも自由でもない」場所を思い知る者たちの話であり,「うぶな子供時代から,人間の限界を受け容れる時期への旅を描いた」物語りだとも言える』と言った上で,次のように書く.

 でもそうした「喪失としての成長」ということに、見方を限定する必要
はない。世界は僕たちにとって、あらかじめ意味づけられてしまっている
ということ。そういう普遍的な思いを、この物語は伝えている。いつもの
端正な文体とシュールな内容のミスマッチが異様な迫力を生んでいる
『充たされざる者』(2007)とともに、現時点でのイシグロの代表作と
言ってよいだろう。
 ただし、「限界の学習」ということで話が終わっているなら、ここまで心
に響く物語にはなるまい。そうした学習を遂げたあとに、人はどうふるま
うのか。イシグロはつねに、そこにも目を向ける。だから『曰の名残り』にし
ても『わたしを離さないで』にしても、あるいは『充たされざる者』にして
も、登場人物たちがある種の悟りに達する結末はとても重要だし、余韻
を残す。陳腐を覚悟でいえば、そこに人間の尊厳をイシグロは見ている
ように思える。

【関連読書日誌】

  • (URL)古い病気に新しい治療法が見つかる.すばらしい.でも,無慈悲で,残酷な世界でもある.”  『わたしを離さないで  (ハヤカワepi文庫) 』 カズオ・イシグロ  土屋政雄 訳 早川書房
  • (URL)“そして当日のすべての演奏が終了し、大西さんがこれで現役生活に別れを告げ、新しい人生のフェイズに足を踏み入れようとしたまさにそのときに、この「おれは反対だ!」事件、が持ち上がったわけだ” 『「厚木からの長い道のり」 小澤征爾大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』』 村上春樹 考える人 2013年 11月号 新潮社
  • (URL)“人生の終わりに近づくと−いや、人生そのものでなく、その人生で何かを変える可能性がほぼなくなるころに近づくと−人にはしばし立ち尽くす時聞が与えられる。ほかに何か間違えたことはないか…。そう自らに問いかけるには十分な時間だ” 『終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)』 ジュリアンバーンズ, Julian Barnes, 土屋政雄訳 新潮社

【読んだきっかけ】埼玉まで観に参りました
【一緒に手に取る本】

Never Let Me Go

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わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

“人は何の経験がなくとも、バカになつて突つ込んでいけば、誰か助ける人が出てきてくれる” 『イベリコ豚を買いに』 野地秩嘉 小学館

イベリコ豚を買いに

イベリコ豚を買いに

野地秩嘉さんの書いたものとの出逢いは随分と昔になるが、気負いのないよい文章を書く人である。目線が低く保たれていて、安心して読めるのである。それでいていわゆる“いい話”をたくさん仕入れてくる。
 さて、豚を飼って喰った内澤旬子さんがいたかと思ったら、この人は、スペインへ行って、イベリコ豚を飼った、調理して、喰って、売ったのである。家人が、デパートで、100g7000円の生ハムが売っていたといって大騒ぎしていたのだが、生ハムが好きらしい家内は、2000円の生ハムさえ買うことができず(まあ当然と言えば当然)、500円のフルーツジュースを飲むという普通はしない贅沢をして、溜飲を下げたらしい。ということがあったので、たまたま、通りがかった百貨店で、切り落とし100g800円で売っているのをみつけ、夫婦で食した。生ハムというのは、こういうふうに美味しいのかと、感激したのであるが、その時、著者の野地秩嘉の名前に惹かれて読んでいたのが本書。これは何としてでも、イベリコ豚のペジョータの生ハムを試して見なければなるまい。
 著者が、イベリコ豚の生産者と、加工業者と、調理人のそれぞれと信頼関係を築いていく感動の物語でもある。
P.50

生産者協会はィベリコ豚の定義について、さまざまな規定を作ったが、その骨子は次の3点に要約できる。
①イベリコ豚とは母豚が純イベリコ種の豚だけに限る。
②種豚は純イべリコ種の豚もしくはデュロック種に限る。
③イべリコ豚と呼んでいいのは邓パ礀セント以上、純イベリコ種の豚の血が人っているもの。つまり、母親がイベリコ種で父親がデュロックの豚はOKだが、その子どもが他の種の豚と交配されたものはイベリコ豚とは認めない。

P.52 3種のイベリコ豚

「まず純イベリ力種のベジョ―タ。これが最高級のィベリコ豚だ。
 毎年7月から8月に誕生した純イベリ力種の豚のうち、生後3か経過した段階で骨格の良いもの、発育が良いものを選出し、餌は最低必要数量のみ投与して養豚する。そして誕生から約ー年経った翌月の8月に、その年のどんぐりの収穫量予測から最終的な放牧頭数を決めるんだ。誕生から約15月経っ10月から11月にべジョ―タ養豚場(どんぐりの森)で養豚が開始される。
 ペジョータは誕生から12か月経過後でもどんぐりの実がなるまで体重は80キログラムに抑えられ、10月、11月に実がついてからはどんぐりと雑草を主として無制限に食べることができるようになる。その,结果、約2,3か月で体重が約80キログラムもー気に増加する。こうして養豚されたイベリコ豚の中には、誕生から約2か月経過後に仕上がった際に180キログラム以上にまで達するものもいる。」

ドングリを食べさせない純イベリコのセボ、イベリコとデュロックとの交雑のセボ
P.60

「焼く時には海塩を振っているのだが、甘い脂が塩を包み込んでしまうので、しよっばさを感じなくなる。イべリコ豚を焼く時はくれぐれも塩を振りすぎないように注意しなくてはならない。スペイン人のなかにはイベリコ豚のグリルには塩よりも醤油が合うと主張する人もいるので、うちの店には醤油も置いてある」

P.156 著者がたどり着いた、イベリコ豚ペジョータが美味しさが引き立つ調理法がなんと!

イベリコ豚を使った焼きそば。ペジョータと市販のもやしと焼きそば。まず、イベリコ豚のバラ肉をスライスし、フライパンでこんがり焼く。脂が多く出てきたら、キッチンぺ礀パ―で拭き取つて、適量を残す。こんがりと焼けたバラ肉は別皿に取つておく。
 次に袋のなかから蒸し麵を取り出して、皿に置き、上から日本酒を振りかける。麵ひとつに対して、おちょこー杯分の酒が目安である。振りかけたらラップで覆わず(:レンジへ入れ、2分間、チンをする。そぅして、麵がほぐれたらイベリコ豚の脂が残つたフライパンに投入し、じつくり焼く。この時、フライパンは揺り動かさなくていい。焦げ目がつくくらいまでしつかり焼く。小麦粉は脂と出会つて焦げるくらいまで焼けた時、香ばしさが生まれる。

でもこれでは、商品にはできない。最終的に、スモークした生ハム、名付けてマルディグラハム、にたどり着くのだが。
P.168

「世界には、パン粉ってものがないんですよ。あったとしても、乾燥したバゲットをおろし金で
おろしたような細かいパンの粒です。
(略)
 正確に言ぇば、日本の食パンを使ったパン粉、生パン粉がないんです。日本の食パンってのはおいしいんですよ。それを生パン粉にして揚げたとんかつだからうまいんです。とんかつの味つてのは肉だけじやなく、パン粉と揚げ油の味です。肉が大したことなくても、おいしいとんかつはできます。野地さんが食べたィベリコ豚のとんかつがおいしくなかったのはパン粉と揚げ方がダメだつたからでしょう。肉のせいじやないです。

P.216

マルデイグラハムのステーキ(2人分)
〈材料〉
•マルデイグラハム250グラム
•イベリコ脉へジヨータラ―ド又は無塩ハター15グラム
•クレソンお好みで
〈作り方〉
フライパンにラIド又はバターを人れ、中火にかける
マルデイグラハムを2枚にカツトして入れ、両面をこんがり焼く。
(略)
マルディグラハムのサンドィッチ(2人分)
〈材料〉
•マルデイグラハム(ぉ好みの厚さにスラィス)約125グラム
•食パン(•八つ切り)4枚
.イベリコ豚べジョータラ―ド、又は無塩バタ―(柔らかくしておく)20グラム
.はちみつとマスタード{お好み)はちみつマスタードとは両方を等分で合わせたもの。
〈作り方〉
食ハンにラ―ド又はハターを塗つてトーストする焼く前にパターを塗ることで力リツとした仕上がりになる。
 トーストにはちみつハターを塗ってかイぺリコ脉ベジョータハムのスイスをはさむ。はちみつバターがなければジャムでもいい。

P.225

食は文化だと言いきれる食品はそれほどたくさんあるわけではない「食は文化」と名乗つても許される食品とはたとえばスペィンで作つている生ハムだ。スペィンの農民の生活のなかから生まれた食品で、ー頭の豚を無駄にしないように作つたものである。肉に添加するのは塩だけ。あとは自然の温度のなかで熟成させる。肉に液を注射して増量することなんかありえない。いまでは食品メーカーが作つているけれど、自家製のそれをいまでもこしらえている農家はある。その技術を守つて、塩だけで生ハムを製造している企業もある。
 上質の生ハムはお金の力では絶対に作れない食品だ。
 食は文化だと主張することのできる食品とはこういうものではないか。
 生活のなかから生まれたもので、作るには時間と手間がかかる。大量生産にはなじまない。偽装がしにくい。作つている最中に自分たちの生活、伝統について考えることがある。
 ここにあるょうな条件を満たしたものだけが文化と呼べる食品だと、わたしは思う。

P.228

人は何の経験がなくとも、バカになつて突つ込んでいけば、誰か助ける人が出てきてくれる。そぅすればハムを作ることはできる。人間はやればできる。少なくとも ハムを作ることはできる。いや ハムができたんだからわたしはソーセージも肉まんもケーキもポテトチッフも、食品ならば作ることができるのではないか。商品を作るのは能力ではない。情熱だ。

【関連ブログ】

  • (URL)“なぜ私は自ら豚を飼い、屠畜し、食べるに至ったか” 『飼い喰い――三匹の豚とわたし』 内澤旬子 岩波書店
  • (URL)『サービスの天才たち』 野地秩嘉 (新潮新書
  • (URL)“彼ら自身は平凡な市井の人ではあるが,やっている仕事は非凡なのである” 『日本一の秘書―サービスの達人たち  (新潮新書 411) 』 野地秩嘉 新潮社
  • (URL)“近藤さんの本は海外情報や面白おかしい話の羅列ではない。人間と国という大きなテーマを考えながら書いたものだから、彼が亡くなってからずっと支持されている” 『美しい昔 − 近藤紘一が愛したアジア」』 最終回「ゆんの父親」 野地秩嘉  SKYWARD 2012年 8月号 日本航空インタナショナル

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