“人も自然の一部である。それは人問内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう” 『天、共に在り』 中村哲 NHK出版

天、共に在り

天、共に在り

アフガニスタンの農業復興、医療支援に、文字どおり生涯をかけている中村哲(てつ)氏の、自身による記録である。NHKの「知るを楽しむ−この人この世界」(2006年6月〜7月)のテキストを加筆修正したもの。
 本書の後半に何葉かの写真がある。上段には、砂漠の中に建設されたできたばかりの用水路の写真。下段には、それから3年後の様子。用水路の両側には木々が育ち、そのむこうの土地には麦がなる。感動的な情景である。と同時に植物の、生物のもつ生命力の強さを実感する。
 最初は、医療支援のためアフガニスタンに入る。主として、ハンセン病対策である。それだけでも凄いのだが、その後、アフガニスタンの人々にとってまず水が必要であることに気づき、井戸を掘る。あの凄まじい内戦、多国籍軍による空爆の中、現地の人を支え、プロジェクトを進める。素晴らしいリーダシップである。同時に、生き抜くための知識、知恵とは何なのかがよくわかる。現代人、都会人のなんと脆弱にみえることか。
はじめに

かつて自著の中で、「現地には、アジア世界の抱える全ての矛盾と苦悩がある」と繰り返して述べてきました。でも、ここに至って、地球温暖化による沙漠化といぅ現実に遭遇し、遠いアフガニスタンのかかえる問題が、実は「戦争と平和」と共に「環境問題」といぅ、日本の私たちに共通する課題として浮き彫りにされたような気がします。

 現地30年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです。 
 人の陥りやすい人為の世界観を超え、人に与えられた共通の恵みを嗅ぎとり、この不安と暴力が支配する世界で、本当に私たちに必要なものは何か、不要なものは何かを知り、確かなものに近づく縁(よすが)にしていただければ、これに過ぎる喜びはありません。

序章 アフガニスタン2009年
P.20

私の知り合いで、外国軍の傭兵となった者が少なからずいた。だが、敵軍の中に身内が居ることを知り、わざと的を外して派手な「銃撃戦」を展開、雇主と従軍ジャーナリストを痛く喜ばせた。そして、ちゃっかり高給とライフルを受け取ると、帰り道に「味方」の外国兵を狙撃して家に戻り、身内の「敵兵」と仲良く団欒しながらその日の「戦果」を語り合った。−−こんな話は珍しくない。外国軍は、誰が敵か味方か分からなくなり、疑心暗鬼に陥るのが普通である。最近では自分たちが育成したはずの国軍兵士から発砲される事件が急増している。

P.31 詩人・火野葦平は、著者の叔父にあたる

表向き剛毅を装い、酒に耽溺するデカダンを装い、独特のユーモアで笑わせる楽天主義者を装い、しかしそれでもなお、繊細な詩人の魂と戦争の影との相克は、彼をさいなんでいたに違いない。火野の転向や自害に対して、とかくの議論がある。しかし、およそ一つのことに命をかけた以上、器用に転進できぬ彼は、それを整理して戦争を否定するのに十年の年月がかかった。

“銃口の向きを変えるためには、おのれの肉体の消滅を賭けて、思想の変革を果たさなければならない” 『イタリア抵抗運動の遺書―1943・9・8‐1945・4・25  冨山房百科文庫 (36) 』(P・マルヴェッツィ, G・ピレッリ編 河島英昭 他訳 冨山房(URL)を思いだす。
P.65

発展途上国の現実に立脚して海外ワーカーとしての体験を分かち合い、アジアの草の根の人々と共に生きる者として……。美しい自然と人々に囲まれたアジアの山村で語らいの時を……」
白々しい文句だと思った。美しく飾られた言葉より、天を仰いで叫ぶハリマの自暴自棄の方か真実だった。
(中略)
最後通牒のよぅな「出席要請」を衝動的に引き裂いた。私は、催しものと議論ずくめの割に中身のない、このような「海外医療協力」と、この時決別したのである。

第二部 命の水を求めて 1986〜2001
第三部 緑の大地を作る 2002〜2008
P.119

 これは古くて新しい問題であった。百年も前に、渡良瀬川足尾鉱毒事件の解決に一生を捧げた田中正造翁のことばが、印象的に心を捉える。
  以上の毒野も
  うかと見れば普通の原野なり。
  涙だを以て見れば地獄の餓鬼のみ。
  気力を以て見れば竹槍、
  臆病を以て見れば疾病のみ。
 我々に足りないのは気力と涙である。PMSもまた、心ある人々の意を体して荒野に緑野を回復し、日本の良心の気力を示そうとするものであつた。

P.120 130キロの用水路を建設し、旱魃地帯に注ぐことを決意。

しかし、宣言にふさわしい力量があつたとは言えない。この時、用水路関係のワー力ーに指定した必読文献は、『後世への最大遺物』(内忖鑑三)と『日本の米』{富山和子)で、要するに挑戦の気概だけがあつた。自分からして、流量計算や流路設計の書物さえ理解できず、高校生の娘から教科書を借りて、苦手な数学を再学するありさまであつた。

P,121

圧倒的な物量と機械力、精密な測量と理論的研究を誇る日本の公共土木技術は、世界屈指のものである。それだけに、専門分化が著しくて門外漢の入る余地が少なく、医療技術と似た点がないではない。しかし、だからといって日本の土木技師がやってきても、すぐに役立つとは思えない。
 医療の場合、日本で優秀な医療技術者といえども、豊富な診療機器とふんだんに必要薬品が使える福祉社会に支えられた技術であって、診断ひとつとっても、聴診器や打腱器など人間の五感だけが頼りでは身動きがつかないことが多い。

P.150

 そもそもパキスタンアフガニスタンの国境は、一八九三年、当時の英国がロシアとの緩衝地帯を置くため、アフガン王国との間で結んた協定によるもので、デュアランド・ラィンと呼ばれる。しかし、この線が多数派民族パシュトゥン一六〇〇万人の居住地を真っ二つに分けたから、国境とするには無理があつた。

第四部 砂漠に訪れた奇跡 2009〜
P.207

里に目を向ければ、豊かな田畑が広がり、みな農作業で忙しい。用水路流域はすでに15万人が帰農し、生活は安定に向かつていた。それは座して得られたものではない。生き延びようとする健全な意欲と、良心的協力が結び合い、凄まじい努力によつて結実したからだ。

平和とは観念ではなく、実態である

かつて一夜にして開拓地を砂で埋めた砂嵐も、一瞬にして家々を呑み込んだ洪水も、広大な樹林带に護られている。幾多の旅人を葬り去った強烈な陽光もまた死の谷を恵みの谷に転じ、豊かな収穫を約束する。ニ万本の果樹の園、膨大な穀物生産、野菜畑、砂防林から得る薪や建材、多くの家畜を養う広大な草地、今や,自活は可能である。悪化の一途をたどる政情を尻目に、静かに広がる緑の大地は、もの言わずとも、無限の恵みを語る。平和とは観念ではなく、実態である。

P.228

いかに強く作るかよりも、いかに自然と折り合うかが最大の関心となった。自然は予測できない。自然の理を知るとは、人間の技術の過信を去ることから始まる。主役は人ではなく大自然である。人はそのおこぼれに与かつて慎ましい生を得ているに過ぎない。知っていたつもりだったが、この事態を前に、初めて骨身に染みて実感したのである。

終章

世の流れは相変わらず「経済成長」を語り、それが唯一の解決法であるかのような錯覚をすりこみ続けている。経済カさえつけば被災者が救われ、それを守るため国是たる平和の理想も見直すのだといぅ。これは戦を図上でしか知らぬ者の危険な空想だ。戦はゲームではない。アフガニスタンの体験から、自信をもって証言しよう。

 極言すれば、私たちの「技術文明」そのものが、自然との隔壁を作る巨大な営みである。時間や自然現象さえ支配下に置けるよぅな錯覚の中で私たちは暮らしている。かつて知識や情報がこれほど楽に入手でき、これほど素早く移動できる時代はなかった。一昔前の状態を思ぅと隔世の感がある。だが、知識が増せば利口になるとは限らない。情報伝達や交通手段が発達すればするほど、どうでもよいことに振り回され、不自然な動きが増すように思われて仕方がない。

しかし、アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によつてこの身守られたことはなかつた。防備は必ずしも武器によらない。
(略)
そして、「信頼」は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても衷切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強闽な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる。私たちにとつて、平和とは理念ではなく現実の力なのだ。私たちは、いとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によつて守られるものとは何か、そして本当に守るべきものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる。

「天、共に在り」
本書を貫くこの縦糸は、我々を根底から支える不動の事実である。やがて、自然から遊離するバベルの塔は倒れる。人も自然の一部である。それは人問内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう。
これが、三十年間の現地活動を通して得た平凡な結論とメッセージである。

【関連読書日誌】

  • (URL)“癩病患者の収容の歴史をふり返ってみるとき、瞭然と浮かび上がってくるのは、...諸外国への体面から癩者をまるで虫げらのように踏みにじってきた、ファシズムとしての医療のあからさまな姿である”『火花―北条民雄の生涯』 高山文彦 七つ森書館
  • (URL)“古い病気に新しい治療法が見つかる.すばらしい.でも,無慈悲で,残酷な世界でもある.”『わたしを離さないで  (ハヤカワepi文庫) 』 カズオ・イシグロ  土屋政雄 訳 早川書房

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

アフガニスタンの診療所から (ちくま文庫)

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医者、用水路を拓く―アフガンの大地から世界の虚構に挑む

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“中井の家を出るときふしぎな 解放感が湧き上がつてきた、と 最相は書くが、それはたぶん嘘 ではないかと思う” 『絵画療法を軸に心の治療を辿る』 サイエンスcrossover 瀬名秀明 (週刊朝日 2014年 3/28号 朝日新聞出版)

週刊朝日 2014年 3/28号 [雑誌]

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最小葉月『セラピスト』の書評が、新聞等にたくさんでており、今評判の一冊である。
その中で、この瀬名の書評(コラム)は、さすが小説家(作家)だと思わせる。
 上手いし、鋭い。こういう読みは、なかなかできない。

 中井の家を出るときふしぎな
解放感が湧き上がつてきた、と
最相は書くが、それはたぶん嘘
ではないかと思う。彼女はこの
とき本書の枠組みをつかんだの
ではないか。最相の本は自身が
何を描くか縁取りが見えたとき
傑作となる。本書も彼女が枠を
探す旅だ。キュッキユッと水性
ペンで画用紙に縁取りする、澄
んだ音が頁から聞こえてくる。

【関連読書日誌】

  • (URL)箱庭療法はつまり、言葉にしないことに意味があるということなのか。では、言葉にしないことでなぜ回復につながるのだろうか。患者がいて、そばで見守る治療者がいて、共に箱庭を鑑賞する。そんな日々を重ねるだけでなぜ人が治るのか” 『セラピスト』 最相葉月 新潮社 (1/2)
  • (URL)“回復に至る道とはどんな道か。クラィエントとセラピストが共にいて、同じ時間を過ごしなから手探りで光を探す。心の底にひそんでいた自分でさえ気づかない苦悩、悲哀にそつと手を差し伸べる。一人では恐ろしい深く暗い洞窟でも、二人なら歩いて行ける” 『セラピスト』 最相葉月 新潮社 (2/2)

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

セラピスト

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こんな雑誌もあるんだ。中身は如何に
DVD付き セラピスト 2014年 04月号 [雑誌]

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現代に求められるセラピストになるためのガイダンス 即実行!  オンリーワンのセラピストになる!

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感じてわかる!  セラピストのための解剖生理 カラダの見かた、読みかた、触りかた

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“演劇は、人類が生み出した世界で一番面白い遊びだ。きっと、この遊びの中から、新しい日本人が生まれてくる” 『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書) 』 平田オリザ 講談社

コミュニケーションを扱った書物は、山のようにあるが、その中で特筆すべき一書である。
帯より

 近頃の若者に
 「コミュニケーション能力がない」
 というのは、本当なのか

 「子どもの気持ちがわからない」
 というのは、何が問題なのか

第一章 コミュニケーション能力とは何か
P.25

しかし、そういつた「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子どもの側にないのなら、その技術は定着していかない。では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。

P.29

しかし、つい十数年前までは、「無口な職人」とは、プラスのイメージではなかったか。それがいつの間にか、無口では就職できない世知辛い世の中になってしまった。
 いままでは問題にならなかったレベルの生徒が問題になる。これが「コミュニケーション問題の顕在化」だ。

第二章 喋らないという表現
P.47

私が公教育の世界に人ってー番に驚いたのも、実はこの点だった。教師が教えすぎるのだ。もうすぐ子どもたちが、すばらしいアィデアにたどり着こうとする、その直前で、教師が結論を出してしまう。おそらくその方が、教師としては教えた気になれるし、体面も保てるからだろう。だいたいその教え方というのも全国共通で、「ヒント出そうか?」と言うのだが、その「ヒント」はたいていの場合、その教師のやりたいことなのだ。
表現教育には、子どもたちから表現が出て来るのを「待つ勇気」が必要だ。

P.59

 私自身は、もはや「国語」といぅ科目は、その歴史的使命を終えたと考えている。明治期、強い国家、強い軍隊を作るために、どうしても国語の統一が必要であった。それ以降一四〇年間、よく「国語」は、その使命を果たしてきた。しかし、すでにその使命は終わっている。

第三章 ランダムをプログラミングする
第四章 冗長率を操作する
P.101

そして、否が応でも国際社会を生きていかなければならない日本の子どもたち、若者たちには、察しあう・わかりあう日本文化に対する誇りを失わせないままで、少しずつでも、他者に対して言葉で説明する能力を身につけさせてあげたいと思う。
 だがしかし、「説明する」ということは虚しいことでもある。
 柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺
を説明しなければならないのだ
TPP (環太平洋戦略的経済連携協定)に入ったからと言って、第三の開国が成就するわけではない。本当に私たちが行っていかなければならない精神の開国は、おそらくこの空虚に耐えるという点にある。コミユニケーションのダブルバインドを乗り越えるというのは、この虚しさに耐えるということだ。

P.109

私たちが、「あの人は話がぅまいな」「あの人の話は説得力があるな」と感じるのは、実は冗長率が低い人に出会つたときではない。冗長率を時と場合によつて操作している人こそが、コミュニケーシヨン能力が高いとされるのだ。

P.111

 九〇年代後半、私の名前や著作が、狭い世界ではあるが演劇界で少しは流布し始めた頃、ある方から『くりかえしの文法』(大修館書店)という本を紹介していただいた。
 日本語教育の重鎮、プリンストン大学東洋学科教授(当時)の牧野成一先生にょって書かれたこの名著には、私がこれまでここに並べてきた理屈が、もっと精緻に、そして当然のことだが学問的な裏づけをもつて書かれている。

P.112

人生は、辛く哀しいことばかりだけれど、ときに、このよぅな美しい時間に巡りあえ.る。普段は不定形で、つかみ所のない「学び」や「知性」が、あるときその円環を美しく閉じるときがある。その円環は、閉じたと思う先から、また形を崩してはいくけれど。

第五章 「対話」の言葉を作る
P.126

民主主義が権力の暴走を止めるためのシステムだとするなら、小粒かもしれないが、市民一人ひとりとの「対話」を重視する政治家を生み出す小選挙区制というシステムは、成熟社会にとつては、存外悪い制度ではない。熱しやすく冷めやすい日本民族の特性を考えるなら、議院内閣制もまた、さして悪い制度だとは思えない。

第六章 コンテクストの「ずれ」
P.137

先にも書いたように、いま、医療コミユニケーションの問題はどこの大学でも取り組んでいて、おそらくそれなりの成果もあげている。だが、そこで取りあげられる多くの事象は、はつきりとしたコミユニケーション不全やハラスメント、あるいはインフオームド・コンセント(医師の説明責任や患者さんとの合意形成)の問題などが主流である。ただ、本当に大事なことは、そして一般社会でもっとも多いのは、先の劇の中の主婦のような、「言い出しかねて」「言いあぐねて」といつた部分なのではないか。演劇は、まさにそういった曖昧な領域を扱うのには、たいへん擾れた芸術であり、またそこから引き出される教育的な効果も確実にあるだろう。

P.149

 身体に無理はよろしくないのであって、私たちは、素直に、謙虚に、大らかに、少しずつ異文化コミユニケーションを体得していけばよい。ダブルバインドダブルバインドとして受け入れ、そこから出発した方がいい。
 だから異文化理解の教育はやはり、「アメリカでエレべーターに乗ったら、『Hi』とか『How are you?』と言つておけ」という程度でいいはずなのだ。

P.155

この一連の物語は、私たちに様々な示唆を与えてくれる。敬語は、日本語や韓国語の根幹をなす大きな特徴であり、またそれは、単に言語の問題を越えて、文化全体を支えている要素でもある。しかし、グローバルな社会で、国際水準の仕事をしようとすると、その「文化」さえも捨てなければならない、捨てないと勝ち進めない局面が少なからず出てくる。では私たちは、何を守り、何を捨てていくべきなのだろうか。これは、そう簡単には答えの出せない問いかけだ。

第七章 コミュニケーションデザインという視点
P.167

両国にいまだに根強い嫌韓反日の感情も、こういった近親憎悪的な事例、あるいはそこに由来•派生する事柄が多くある。日韓だけではない。世界中を見渡しても、隣国同士はたいてい仲が悪い。その原因の一つは、文化が近すぎたり、共有できる部分が多すぎて、摩擦が顕在化せず、その顕在化しない「ずれ」がつもりつもって、抜き差しならない状態になつたときに噴出し、衝突を起こすという面があるのではないか。

P.198

 シンパシーからエンパシーへ。同情から共感へ。これはいま、他の分野でも切実な問題となつている。
 医療や福祉や教育の現場で、多くの有為の若者たちが、「患者さんの気持ちがわからない」「障害を持った人たちの気持ちが理解できない」と絶望感にうちひしがれて、この世界を去つていく。真面目な子ほど、そのような傾向が強い。

第八章 協調性から社交性へ
P.209

読者諸氏は、PIS A調査(Programme for International Student Assessment)といぅ名前を聞いたことがあるだろぅ。OECD (経済協力開発機構)が、参加各国の一五歳を対象に三年ごとに行つている世界共通の学力調査だ。

P.215

OECDPISA調査を通じて求めている能力は、こういつた文化を越えた調整能力なのだ。これを一般に「グローバル・コミュニケーション・スキル(異文化理解能力)」と呼び、その中でも重視されるのが、集団における「合意形成能力」あるいはそれ以前の「人間関係形成能力」である。

P.219

 科学哲学が専門の村上陽一郎先生は、人間をタマネギにたとえている。タマネギは、どこからが皮でどこからがタマネギ本体ということはない。皮の総体がタマネギだ。
 人間もまた、同じようなものではないか。本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。

P.220 秋葉原連続殺傷事件の加藤被告の書き込み

 「小さいころから『いい子』を演じさせられてたし、騙すのには慣れている」
私は、「演じる」ということを三〇年近く考えてきたけれど、一般市民が「演じさせられる」という言葉を使つているのには初めて出会つた。なんという「操られ感」、なんという「乖離感」。
 「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに、「もう演じなくていいんだよ、本当の自分を見つけなさい」と囁くのは、大人の欺瞞に過ぎない。
 いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが、教育の目的ではなかつたか。あるいは、できることなら、いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい。

あとがき から

演劇は、人類が生み出した世界で一番面白い遊びだ。きっと、この遊びの中から、新しい日本人が生まれてくる。

【関連読書日誌】

  • (URL)自死が少ないのは、風土だけが理由ではない。人と、人を想う人が作りだした場がある” 『自死の少ない町にて −徳島県旧海部町を歩く』 森川すいめい みすず 2012年 12月号 みすず書房
  • (URL)“信頼してもらう,愛してもらう力を身につけることが大切なのだ.”  『特集 就活の虚実』 宮台真司 週刊ダイヤモンド 2月12日号
  • (URL)“専門でない研究領域の人たちに,そして市民に,みずからも一個の研究者ではなく,同時に一人の市民でもある者として,どんなふうに語りかけてゆけばよいのか,とことん悩むこと。そのときの語りづらさというものを,研究者はこのあたりで,とことん経験すべきではないかとおもう” 『語りづらさの経験を』 鷲田清一 科学 2012年 04月号 岩波書店

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

くりかえしの文法―日・英語比較対照 (日本語叢書)

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対話とプロフィシェンシー ―コミュニケーション能力の広がりと高まりをめざして (プロフィシェンシーを育てる2)

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話し言葉の日本語 (新潮文庫)

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ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生

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“原子力発電にかかつているコストはこれだけなのであろうか。むしろ、原子カ発電には直接発電に要するコスト以外にも様々なコストがかかつているのではないだろうか” 『原発のコスト――エネルギー転換への視点』  (岩波新書)  大島堅一 岩波書店

原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)

原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)

 原子力発電のコストを考える上で、基本文献となりうる書物。論じるべきことが、要領よく整理されている。推進にせよ、反対にせよ、本書での論拠を出発点にに議論されることを望みたい。見通しよくまとめられているので。将来への(子孫への)負債を増やすだけの、その場しのぎの選択をしていないのか。日本国民の知恵と価値観が試されている。
引用したい箇所は多いが、最初の2章分にとどめておく。
見返しより

他と比べて安いと言われてきた原発の発電コスト。立地対策費や使用済燃料の処分費用などを含めた本当のコストはいくらになるのか。福島第一原発事故の莫大な損害賠償を考えると、原発が経済的に成り立たないのはもはや明らかではないか。再生可能エネルギーを普及させ、脱原発を進めることの合理性をコスト論の視点から説得的に訴える。

はじめに

原子力発電にかかつているコストはこれだけなのであろうか。むしろ、原子カ発電には直接発電に要するコスト以外にも様々なコストがかかつているのではないだろうか。また、このコストをめぐって、様々な問題が生じているのではなかろうか。

第一章 恐るべき原子力災害
P.8

福島第一原発事故の特徴は何であろぅか。次の五つに整理できるであろぅ。
第一に、世界で初めて地震津波によってて起こった大事故であるということである。2007年の新潟県中越沖地震のときには、東京電力柏崎刈羽原発に大きな影響がでたものの、大事故にまでは至らなかった。その意味では、神戸大学名誉教授•石橋克彦が警告を発していた「原発震災」が初めて現実となつた。
(中略)
第二に、事故を起こした原子炉の数が複数に及んでいるということである。
(中略)
第三に、事故の一応の収束までに非常に長い期間を要しているといぅことである。スリーマイル島原発事故は事態の収束までに数日しかかからなかった。チェルノブイリ原発の事故でも事故後約二週間で収束し、7ヵ月後には石棺によって封じ込めが行われた。
(中略)
第四に、被害地域の広域性である。
(中略)
第五に、汚染の不可逆性である。

P.18

 大気への放射性物質の放出は、東京電力によれば、事故直後の数日間が最も量が多く毎時1000兆ベクレルであった。四ヵ月以上きた七月下旬〜八月上旬の放出量は、毎時ニ億ベクレルで、事故発生直後からすれば1000万分の1にまで減つているという。ただし、この放出量に問題がないとは到底いえない。ここで注意すべきことは、日本で福島第一原発事故以前はこのような膨大な量のが環境に放出されたことがなかつたということである。新潟県中越沖地震の際に柏崎刈羽原発から大気中に漏れた放射能(ヨウ素131)の量は四億ベクレルであつたが、この量ですら大きな社会問題となつた。このことを想起すれば、事故数ヵ月たっても続いている放射能の放出状況は極めて異常である。

P.21

放射線による影響は直接的なものにとどまらない。確定的影響とは異なり、確率的影響は、確定的影響がでる閾値より低い量の被爆をしても生じ、その影響については閾値はないとされている。

P.33

とはいえ、新しい目安において示されている年間一ミリシーベルトといぅ被曝量は、学校などの施設にいる時間だけを対象にしたものであって、子どもの生活全般を考慮してのものではない。

P.34 水と食品の汚染について

 暫定基準のままでよいかどうかは議論の余地がある。例えば飲料水の基準をみると、放射生ヨウ素はWHO飲料水水質ガイドラインの三〇〇倍に相当する。また食品中の放射性セシウムは、チェルノブイリ原発事故後の食品輸入の制限値一キログラムあたり三七〇ペクレルを超えた五〇〇ペクレルである。

P.36 除染について

問題点はさしあたって三点ある。第一は、除染地域の区分をし、国のかかわる役割を変えていることである。法律では、環境汚染が著しい地域を「除染特別地域」に指定し、これについては国が除染を実施するとしている。その一方で、「環境の汚染状態が環境省令で定める要件に適合しない」ところは「除染実施区域」とし、除染の実施主体を市町村においている。
(中略)
第二に除染費用の負担を誰が行うのかという問題である。
(中略)
第三には、除染で出る放射性廃棄物の最終処分地が決まっていないことである。

第二章 被害補償をどのように進めるべきか
事故費用の4つの区分:(1)損害賠償費用、(2)事故収束・廃炉費用、(3)現状回復費用、(4)行政費用
P.42

廃炉については、これまで一一〇万キロワットの原発一機あたり六三〇億円程度(沸騰水型原
子炉六五九億円、加压水型原子炉五九七億円)の費用がかかると、電気事業連合会(電事連)によって試算されていた。だが、これは正常な運転をして廃炉に至った原子炉の場合である。
(略)
年間の被曝量をーミリシーべルトに抑えるとすると、警戒区域と計両的避難区域を含む2000平方キロで除染する必要があり、費用は、放射性廃棄物貯蔵施設の建設だけで80兆円にのぼるという報道尾あ。
 (4)行政費用は、国、各種自治体が行う防災対策と放射能汚染対策、各種の検査などが含まれる。また、放射能汚染によって出荷できなくなつた食品の買い取り費用もある。

第三章 原発は安くない
第四章 原子力複合体と「安全神話
第五章 脱原発は可能だ

本書の内容をより詳しく知りたい読者は、拙著『再生可能エネルギ―の政治経済学』(東洋経済新報社、2010年)、『原発事故の被害と補償』(除本理史との共著、大月書店、2012年)、『国民のためのエネルギー原論』(植田和弘、梶山恵司らとの共著、日本経済新聞出版社、ニ〇一一年)を,ご覧下さい。
 すべての科学は批判的であるべきですが、こと原子力政策については、社会科学の領域でも批判的に研究している専門家は極端に少なく、時として孤独な作業を強いられます。その中で、福島第一原発事故以前から精力的に研究されてきた室田武氏、吉岡斉氏、長谷川公一氏、清水修ニ氏、飯田哲也氏の論考には、常に光を見る思いでした。
 また、原子力技術について批判的立場から啓蒙されてきた高木仁三郎氏(故人)、瀬尾健氏(故人)、安斎育郎氏、小出裕章氏、小林圭ニ氏、今中哲ニ氏、野ロ邦和氏、舘野淳氏の著作に多くのことを学びました。

【関連読書日誌】

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

原発は火力より高い (岩波ブックレット)

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原発のウソ (扶桑社新書)

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“死刑制度が拘置所職員、教誨師など刑を執行する側の人々の心 に深い傷を与えていることが静かに伝わつてくる” 『読まずにはいられない 死刑制度が与える 深い傷を淡々と』 book 041 佐藤優 AERA (アエラ) 2014年 3/10号 朝日新聞出版

AERA (アエラ) 2014年 3/10号 [雑誌]

AERA (アエラ) 2014年 3/10号 [雑誌]

AERAに、佐藤優氏による『教誨師』(堀川惠子著)の書評が掲載された。

少しでも長く生きたいという死刑囚の本能と、機械的に死刑を執行しなくてはならない拘置所職員との職業的良心が交錯する瞬間を、過剰な感情を排し、見事に描いている。渡邊は、晩年、アルコール依存症で苦しむが強靱な意志力で依存症を克服する。死刑制度が拘置所職員、教誨師など刑を執行する側の人々の心に深い傷を与えていることが静かに伝わつてくる。

吉永小百合主演の映画『天国の駅』(1984年)は、この『教誨師』にでてくる小林カウがモデルなんだそうである。
【関連読書日誌】

  • (URL)“どのような過ちを犯した時も、どんな絶望の淵に陥った時も、少しだけ休んだら、また歩き出す力を持ちたい。人は、弱い。だからこそ、それを許し、時には支え、見守ってくれる寛容な社会であることを心から願う” 『教誨師』 堀川惠子 講談社

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

教誨師

教誨師

裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

永山則夫 封印された鑑定記録

永山則夫 封印された鑑定記録

死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの

死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの

天国の駅 [DVD]

天国の駅 [DVD]

天国の駅 [DVD]

天国の駅 [DVD]

“技術の固まりであるはずの、国策としての原発が、結果的には「偶然」に救われたことになり、とても正気の沙汰ではありません” 『日本は再生可能エネルギー大国になりうるか』  (DIS+COVERサイエンス)  北澤宏一 ディスカヴァー・トゥエンティワン

東日本大震災から今日で3年である。まだ東京五輪で浮かれている場合ではないだろう。
著者の北澤宏一氏は科学技術振興機構JST)元理事長、現顧問。福島原発独立事故調査委員会(民間事故調)の委員長である。本書の報告をある勉強会で聞いていたら、何と著者ご本人が現れたのには驚いた。

さらに、国民に対しては明かされていなかったのですが、今回の事故にはさらに大きな危機がありました。これは民間事故調のヒアリングのなかで見つかったものです。官邸上層部は非常に強い危機感を抱いていました。
(中略)
4号機の事態が悪化すれば、住民非難区域は半径200キロメートル以上にもなり、首都圏を含む3000万人の非難が必要になるかもしれないとされたのです。
 このような可能性の警告が、原子カ委員会の近藤駿介委員長らによって「最悪のシナリオ」として首相官邸に届けられていました。この報告書は、9ヵ月以上後になってやっと民間事故調の情報請求によって明らかにされました。
(中略)
そうなると、東日本全体が首都圏も含めて避難しなければならなくなる可能性もある−というのが、民間事故調の検証で見つかった、原子力委員会の委員長らがつくった「最悪のシナリオ」――「なかったことにしよう」ということで回収されていた、「私的な報告書」でした。
(中略)
この過密配置の問題は、まさに、国が滅びるようなリスクです。これほどのリスクは、「リスクのないメリットはない」といつた言葉で他のリスクと同等に扱うことは不可能です。これこそが、まさに欧州諸国が「脱原発」を決めた理由ですと私は思います。
(中略)
 技術の固まりであるはずの、国策としての原発が、結果的には「偶然」に救われたことになり、とても正気の沙汰ではありません。

【関連読書日誌】

  • (URL)“現在生じている事態は、単なる技術的な欠陥や組織的な不備に起因し、それゆえそのレベルの手直しで解決可能な瑕疵によるものと見るべきではない” 『福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと』 山本義隆 みすず書房
  • (URL)“科学(者)への信頼は,何が確実に言えて,何が言えないか,それを科学者自身が明確に述べるところに成り立つといえる。科学とは,まずなによりも《限界》の知であるはずである” 『見えないもの,そして見えているのにだれも見ていないもの』 鷲田清一 科学 2011年 07月号 岩波書店
  • (URL)“日本では、使用済み核廃棄物―つまり、使用済み核燃料の処分方法について、歴史の批判に耐える具体案を持っている人は誰もいないのである” 『福島原発の真実  (平凡社新書) 』 佐藤栄佐久 平凡社

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

原子力発電の根本問題と我々の選択: バベルの塔をあとにして

原子力発電の根本問題と我々の選択: バベルの塔をあとにして

科学技術は日本を救うのか (DIS+COVERサイエンス)

科学技術は日本を救うのか (DIS+COVERサイエンス)

“秘密というのは秘密のままにしておくのが難しい。秘密は心の被膜ぎりぎりのところに身を潜めていて、それを抱える人の決意にひび割れを見つけるや、そこからいきなり這い出してくるのだ” 『秘密』 (上・下) ケイト・モートン 訳:青木純子 東京創元社

秘密 上

秘密 上

秘密 下

秘密 下

The Secret Keeper

The Secret Keeper

なんとも不思議な、あまりにも上手い構成の本である。一応推理小説だから、殺人事件は起こる。だが、その犯人は目撃証人の独白により最初から明らかなのだ。なんのまよう余地はない。読者は、3つの時代を行ったり来たりしながら、秘密を探る。だが、なんだこんなつまらない普通の結末だったのか、と思いそうになったところで、その秘密は、最後の最後の方で明かされる。この小説が、推理小説ではなく、とてつもなくすごい純愛小説であったことに気がつくのである。涙無しには読み終えることができない、推理小説である。推理小説だから、秘密を知ってしまった読者は、もう一度最初からこの物語を読み返したくなる衝動にかられる。

秘密というのは秘密のままにしておくのが難しい。秘密は心の被膜ぎりぎりのところに身を潜めていて、それを抱える人の決意にひび割れを見つけるや、そこからいきなり這い出してくるのだ。

本書の内容とは関係ないが、本書で「あなたはサバイバー(survivor)なのだから」というセリフが何カ所もでてくる。このサバイバーに翻訳者は「頑張り屋さん」という訳を当てていた。なるほどと思った次第。
NHKの朝ドラ、あまちゃんで、「暦の上ではディセンバー」という挿入歌がある。この歌詞に、「暦の上ではディセンバー でもハートはサバイバー」というところがあり、ハートはサバイバーとはどういうことだと思っていたのだが、これでわかった気になった次第。
【関連読書日誌】
【読んだきっかけ】書評
【一緒に手に取る本

忘れられた花園 上

忘れられた花園 上

忘れられた花園 下

忘れられた花園 下

“物は何も語りはしない。  しかし雄弁にもできる。  真実を語らすことも、嘘に利用することも。” 『桶川ストーカー殺人事件―遺言』  (新潮文庫) 清水潔 新潮社

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

涙なくしては読めない本である。日本の警察機構、マスメディアのあり方に、一石を投じる書。単行本が2000年刊、文庫本が2004年刊であるから、時間からもうかなり長い月日がたったことになる。日本ジャーナリスト会議JCJ)大賞受賞作である。TV化も三度されたらしい。
 見返しには、被害者となった、猪野詩織さんのカラー写真が添えられている。これも珍しいことだ。普通の、ごく普通の女子大生が、なぜ事件に巻き込まれたのか、なぜ防ぐことができなかったのか、どうしてあのような報道がなされたのか、根は深い。
 心から救おうとする人、真実をしろうとする人が一人いたことによって、事実が明らかにされたことがせめてもの救い。大勢の傍観者がいても何の役にもたたないのだ。
文庫版あとがき、より

 娘の名誉のために闘うという二人は、娘を助けられなかったことに懺悔の気持ちすらあるというが、お二人の強さの源は、詩織さんが残していった様々のものにある。言葉や遺書、そして遺品に。
 物は何も語りはしない。
 しかし雄弁にもできる。
 真実を語らすことも、嘘に利用することも。

巻末に寄せられた、猪野憲一さんの文章「文庫化に寄せて」より

本書には、人に与えられただけの垂れ流しの情報によってではなく、自らの研ぎ澄まされた直感と信念によって、真実を探りだそうと猛烈に突き進んだひとりの報道陣の行動の結果が記されている。
 この事件の真実を求める多くの人たちに、この事件がどのようなものだったのか、また、報道を志す人々に、報道する人間が真にもつべき姿勢とはどのようなものか、この本を手にすることで分かって頂けると信じ、心から願っている。

【関連読書日誌】

  • (URL)“「一番小さな声を聞け」というルールに従うなら、この場合、被害者遺族がそれだ。手紙を書き、末尾に自分の携帯の番号を書き入れてポストに入れた。私は手紙ばかり書いている” 『殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』 清水潔 新潮社

【読んだきっかけ】『殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』を読んで。
【一緒に手に取る本】

“「どんな時でも、笑顔を忘れるな。困った時、怒りたくなった時、辛い時、すべて、皆の顔を見て、笑顔を見せなさい。それができれば、あなたは生き残れる」” 『 ゴジラで負けてスパイダーマンで勝つ: わがソニー・ピクチャーズ再生記』 野副正行 新潮社

ゴジラで負けてスパイダーマンで勝つ: わがソニー・ピクチャーズ再生記

ゴジラで負けてスパイダーマンで勝つ: わがソニー・ピクチャーズ再生記

新潮社の波2013年11月号に、元ソニー執行役員ソニーEVPの北谷賢司氏が、本書によせて『ミッションは「どん底をトップに」』なる文章を書いており、そこでこんなことを書いている。

ニューヨークの米国ソニー本社からハリゥッドへ向かった。その出発の直前、私は野副さんに進言した。
「スタジオでは、どんな車に乗っているかでまず値踏みされる。ソニーの社内規定に構わず、高級車を調達すること。それから、スタジオ幹部や業界人を家に招けるよう、これも遠慮せずに豪邸をビバリーヒルズ周辺に借りること」

 数々の功績にもかかわらず、野副さんは少しも自慢顔をしていない。だが、本書の内容は、企業経営に腐心する者にも、映画・テレビ・出版・ゲームといったコンテンツ産業に働く人たちにとっても、眼を見開かせるものがある。彼は日本人として初の(そして、今後、二度と生まれないかもしれない)メジャースタジオ社長にまでなつたのだが、なぜかソニー本社はあまり積極的に広報せず、その功績はほとんど知られてこなかった。今回、この自伝によって一端なりとも,記録に残されたことは、映画ビジネス史上、大きな価値があると思つている。

これは読まないわけにはいかない。
P.4

期待を込めて封切りした「アメリカ版ゴジラ」で大失敗したことで、私たちは、大きな現実的教訓を得て、転換に踏み切ることができた。コンテンツ産業も企画の段階から立派に数値化でき、業績を安定化させ伸ばしていけることは、いまやアメリカの主要映画会社の中でトップとなり「宝石」と呼ばれるに至った「かつてのお荷物」SPEが証明している

P.5 SPE異動時、ソニー会長だった大賀氏からいわれたこと

「エンタテインメント業界が、これまで見てきたエレクトロニクス業界とはまったく異なることを、あなたは実感するだろう。もうひとつの難しい点は、あなたは“本社から送り込まれた素人”と見られることだ。その中で、どうやっていくかを教えてあげよう。どんな時でも、笑顔を忘れるな。困った時、怒りたくなった時、辛い時、すべて、皆の顔を見て、笑顔を見せなさい。それができれば、あなたは生き残れる」

P.38

 読者の中には、アメリカでも株式を上場しているソニーによる突然とも言える巨額償却を、米国の当局がよく許したものだと疑問を持だれる方もあるだろう。それはそのとおりで、当時は現在と比べるとアメリカの証券取引委員会(SEC)もまだ穏やかだった。

P.45 このジョン・キャリーのエピソードは、胸に染みるものがある。

自身がやつていること、立場、持っている権力、それに対する周りのへりくだり、へつらい、ご機嫌とりといつたすべてに対して、「違う、そうではない!」と心の中で叫ぶ自分に気がついたこと。周りが引き止めるのを振り切って、すべての職を辞し、ハリウッドから遠く離れたニューヨークの島に引き移つたこと。ロングアィランド海峡にあるその島(いかにもハリウッドの成功者らしく、その島ごと彼の所有だった)で太陽の光と海からの風を受けて読書三昧で過す日々を送り始めたこと。
 その後、コネチカット州の田園地帯に移ってから読んだ日系英国人作家カズオ・イシグロの『日の名残り』に感銘を受け、ぜひ映画にしたいと再び立ち上がつたこと。さらには、大手タレントエ―ジエンシ―、CAAを率いていたマイケル・オービッツに依頼されて、当時メトロ・ゴ-ルドウイン・メイヤー(MGM)の傘下にあったユナイテッド・アーテイスツの社長に就任してハリウッドに復帰したこと……。

wikipedia によれば

Calley attended Columbia University in the late 1940s, and then briefly served in the Army.[8] His early life also included working for his father―"who had possible criminal ties"―as a used-car dealer.[9] His first significant industry job was at NBC's New York headquarters, at age 21,[10] when he started in the mailroom.[9]

(John Calley, http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=John_Calley&oldid=591915194 (last visited Mar. 2, 2014). )
P.82

このように制作をスタ―トさせる決定を下すことを、ハリウッドではグリ―ン・ライティングと呼ぶ"信号を青に変える」という意味で、グリーン・ライテイングを行なうか否かは央画制作において最も重要な判断とされる。そして、どのスタジオでも誰がその決定権を持っているのかが常に問われる。グリ―ン・ライティングを行える者はスタジオにおいて絶対的な権限の持ち主だが、成功と失敗を分ける非常に重い責任を負う。

P.153

今になって経営論的に述べるなら、イメージワークスの成功の鍵は、ひとつは当時のソニー本社の経営トップの大賀さん、出井さんの忍耐力、我慢強さが、多くのネガティブな意見や見方を封じ込んだことにある。SPEトップのジョン・キヤリーが、私の言葉を信じてこの事業を任せてくれたことも同様だ。そして、もうひとつの鍵は、われわれの目標と理想を信じ、がむしやらに走り続けてくれたサーノフとイメージワークスのスタッフの情熱と行動力だつた。

P.198 エリアカザンが、アカデミー賞特別功労賞を受賞したときのエピソード

この赤狩りで俎上に載せられた監督や脚本家、俳優などは三百人以上に上り、中には、自殺したり、それから職につくこともままならず寂しい生涯を送ったりした人もいた。英固人のチヤップリンの場合、アメリカに住むのを許されなくなり、残る生涯をヨーロッパで暮らすことを余儀なくされた。
 そうした人々の名を非米活動委員会に告げざるをえなかった人物の一人が、エリア・カザンだった。彼がそのことでいかに悩み、その後の映画づくりにいかに懺悔の念を込めたかは、作品自体が物語つている。だが、赤狩りが止んでから半世紀近くが過ぎた九九年の時点でも、ハリゥッドではまだ彼を許してはいない人が多かつた。
 特別功労賞を受け、映画人の前で話す機会を得たカザンは、スピーチの最後にこう述べた。
「これをもって私は皆さんの前から消え去ります」
彼は、消え去ると告げるのに「slip away」と言つた。すーっと消えていくという印象の強い表現だ。私は今でも、あの言葉の響きと、それをロにした彼の姿を忘れることができない。

おわりに

日本の活力が失われ、飛躍へのエネルギーが生まれてこない理由は、やはり経済が活性化していない点が一番に挙げられる。やりたい仕事が見つけられないということが、若者から夢や元気を奪い、彼らの考え方を弱気で近視眼的で後ろ向きなものにしている。街に出れば、商品やサービスの価格は、その質とともに低下している。まさに「安かろう、悪かろう」でバランスを取つているのだ。欧米とだけでなく、他の伸び行くアジアの各国と比べてみても、日本人と彼らのマィンドセット(心のありよう)の差は一目瞭然だ。曰本は全てにおいてマィナス方向の回転になつてしまつている。
 逆に言うならば、この国を再び生まれ変わらせ、生き生きとした国にするにあたっての最大のテ―マは、経済の立て直しだ。再び政権の座についた自民党政権が目指しているのもこの一点である。
 では、どうすれば日本経済は再建できるのか。やるべきことはたくさんあるが、どこに焦点を当てた動きが必要なのであろうか。既に多くの方が指摘しているが、一つのヒントはスピードと国際化だ。

【関連読書日誌】

  • (URL)“瞬発力と集中力と持続力を身につけて、知性と品性と感性を磨く。磨いて、磨いて、磨きつづける。あるとき、ふっと深い霧が晴れるように、何かが少しだけ見えてくる” 『私 デザイン』 石岡瑛子 講談社

【読んだきっかけ】新潮社波2013年11月号、来週 SPEの人と会うこともあり。
【一緒に手に取る本】

アカデミー賞―オスカーをめぐるエピソード (中公文庫)

アカデミー賞―オスカーをめぐるエピソード (中公文庫)

グラミー賞 ([MOOK21]シリーズ)

グラミー賞 ([MOOK21]シリーズ)

DVD>アカデミー賞大全集(10枚組) (<DVD>)

DVD>アカデミー賞大全集(10枚組) ()

エリア・カザン自伝〈上〉

エリア・カザン自伝〈上〉

エリア・カザン自伝〈下〉

エリア・カザン自伝〈下〉

DVD>欲望という名の電車 Classic movies collection (<DVD>)

DVD>欲望という名の電車 Classic movies collection ()

“フロストを読んだら、いろいろな意味で、英国社会がわかる。それと同時に、人間はどこでも同じだということもわかる(養老孟司)” 『冬のフロスト』 (上・下) (創元推理文庫)  R・D・ウィングフィールド 芹澤恵訳 東京創元社

冬のフロスト<上> (創元推理文庫)

冬のフロスト<上> (創元推理文庫)

冬のフロスト<下> (創元推理文庫)

冬のフロスト<下> (創元推理文庫)

ウイングフィールドによる警部フロストシリーズは、邦訳がでるたびに、年末のミステリランキングで上位にでる常連であるが、あまり知られていないことに、著者のウィングフィールドは、2007年に亡くなっているのだ。その未邦訳の最後の1冊が、この“Winter FROST”『冬のフロスト』であった。
 紳士淑女には読ませられないような下品は発言を日常とする警部フロストの周りに、次から次へと厄介な事件が起こる。ところが、読み終わる頃には、不思議とすべて解決しているのである。愛すべき警部フロストに、この連作の魅力があると言えよう。
 この、文庫でびっくりしたことが二つ。一つは、解説を、養老孟司が書いていること。題して『フロストはいい』。二つめは、前立腺がんで亡くなったらしいが、同時にもう1冊執筆していて、2008年に“A Killing Frost”が出版されていること。いずれ邦訳もでるだろう。
解説より、

 フロストを読んだら、いろいろな意味で、英国社会がわかる。それと同時に、人間はどこでも同じだということもわかる。読んで楽しみながら、そういうことがなんとなく理解できるのが、じつは推理小説の本当の面白さではないだろうか。

WikiPedia によれば

Wingfield did not enjoy writing books, and much preferred writing radio scripts.[1] In 20 years he wrote over 40 radio mystery plays, but stopped in 1988, with Hate Mail, due to the decline of radio and the success of his Frost books.[1][2] As well as the many mystery plays, Wingfield also penned a comedy radio series, The Secret Life of Kenneth Williams, starring Kenneth Williams as a secret agent.[2] Wingfield was a very private man, always avoiding book launches and publishing parties, and being rarely photographed.[3]

(R. D. Wingfield. (2013, August 15). In Wikipedia, The Free Encyclopedia. Retrieved 18:41, March 1, 2014, from http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=R._D._Wingfield&oldid=568627614
とある。また、

In 2011, the first of two new Frost books were published with the approval of the Wingfield family. The two books, First Frost and Fatal Frost are written by James Henry, a pseudonym for James Gurbutt and Henry Sutton.[6]

とあるので、シリーズ続篇もあるかもしれない
【関連読書日誌】
【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

フロスト日和 (創元推理文庫)

フロスト日和 (創元推理文庫)

夜のフロスト (創元推理文庫)

夜のフロスト (創元推理文庫)

フロスト警部 DVDBOX1

フロスト警部 DVDBOX1

フロスト警部 DVD-BOX 2

フロスト警部 DVD-BOX 2

フロスト警部 DVD-BOX 3

フロスト警部 DVD-BOX 3

フロスト警部 DVD-BOX 4

フロスト警部 DVD-BOX 4

フロスト警部DVD-BOX(5)

フロスト警部DVD-BOX(5)

“十九歳のとき(多分、太地喜和子に誘われて)、同じこの地で唐十郎の下町唐座の芝居を観て、役者が縦横に走り回り、お客が熱狂する姿に、「歌舞伎の原点はこれだ」と思う。以来、先祖の勘三郎代々が座元(興行主)も兼ねた「中村座」を平成の世に甦らせたいと、誰彼となくその夢を語り続けた” 『勘三郎伝説』 関容子 文藝春秋

勘三郎伝説

勘三郎伝説

すごくいい話がたくさん詰まった珠玉の一冊!!!
古い世界の歌舞伎を、伝統を壊すことなく、変えていこうとしていた人だったことを知る。惜しい!
第一章 初恋の人に銀の薔蔽を
P.12

 二十数年前、その店で勘三郎(当時勘九郎)さんが太地喜和子さんとの真剣な恋の話を熱く語つたことがある。
 私は生涯この話を書くことはあるまいと思って聞いていたが、彼の亡くなった日の早朝から喜和子さんとのことがテレビの映像で流れ、この恋なくしては今の自分はなかった、と中村屋自身が言っているのを見た。
 あのとき、人が人を本当に好きになるということは、こんなにもその人生に深く根をおろすものなのか、と切に感じ入ったことが今も変らず私の中にある。勘三郎といぅ人を丸ごとわかってもらうために、やはり書こう、と思う。

P.20 中村屋の弁

「喜和子は『欲望という名の電車』のブランチが演りたくて仕方がなかったんです。きっと素晴しかっただろうと思う。目に浮かぶょね。でも杉村先生がいらっしゃるうちはできないの、ってがっかりしてたから、いつかきっとできるさ、そしたらお祝いに俺が銀の蔷薇百本贈るからね、って約束して……」

P.23

 記者たちがー人去り、二人去り、というところで私が、いつか東京で会って中村星との話を聞かせてほしい、と切り出すと、いいわよ、とうなずいて、すぐに次のような話をした。
文学座のアトリエに私の芝居を毎日のように観に来てて……最後の幕切れに桜の花がパラパラッと散るんだけど、新劇は別にそういうところに凝らないから、本当に申しわけみたいに貧弱にパラパラパラ、なのよ。そしたら楽の日、私の下駄箱の上に茶色い大きな紙袋……、歌舞伎で使う型押しの立派な桜の花びらが入ってるのが、ふた袋も置いてあったのよ。見ると、少年みたいな字で、『この花でステキなさよならして下さい。のり』って書いてあったの(笑)。
可愛いでしょ。十九だったものね、彼。そりゃあその晚の桜吹雪は豪華なものだったわよ。ほんと、見せたかったくらい......」
と、遠い日をなつかしんだ。
 それから程なく運命の十月十三日がやってきて、あの事故が起きた。中村屋はそのとき京都にいたが、最終の新幹線に飛び乗って文学座アトリエのお通夜に列席し、銀の蓄薇百本を霊前に供えて生前の約束を果たしたという。
 少し曰を置いてから、私は中村屋に,こんぴらで聞いた喜和子さんの話を伝えた。
「ふうん。今度いつか東京で、って言ってんのにすぐそんな話をしたんだね。もう会えないと虫が知らせたってことなのかね。喜和子は日ごろから水が怖いと言ってて、洗面器の水さえ怖いと言ってたのに、死に顔を見たらとってもきれいで安らかだった。水の中で、もう助からない、と覚悟したときに、せめて死に顔だけはきれいにしよう、と思ったんだろうね。ちっとも苦しそうな顔をしてなかつたのが救いだつた」

第二章 勘三郎スピリットヒ仁左衛門
P.31

 十九歳のとき(多分、太地喜和子に誘われて)、同じこの地で唐十郎の下町唐座の芝居を観て、役者が縦横に走り回り、お客が熱狂する姿に、「歌舞伎の原点はこれだ」と思う。以来、先祖の勘三郎代々が座元(興行主)も兼ねた「中村座」を平成の世に甦らせたいと、誰彼となくその夢を語り続けた。
「語り続ければ夢って叶うもんだよね」という話は、当時中村屋の知人友人にとっては耳に夕コだった。

P.39

 平成中村座では、折にふれて若手や脇役さんたちの試演会を開き、勉強の場を与えていた。
 中村獅童は二十九歳のとき映画『ピンポン』でブレ―クしたが、その後歌舞伎で注目を集めたのは中村座ニ年目の試演会『義経千本桜』「四の切」で狐忠信に抜擢されてから、と言える。あのとき花道の引つこみで自然に湧き上がつた歓声と拍手で、歌舞伎役者獅童のスター卜を切つた。その恩義を深く感じた獅童が、勘三郎のお通夜や密葬で黙々と立ち働く姿をテレビカメラがしばしばとらえていた。

第三章 超多忙な天才子役
第四章 中村屋極付『連獅子』誕生秘話

 歌舞伎座さよなら公演最終月、第一部の中村屋父子三人による『連獅子』の評判はすごかった。歌舞伎座へのお別れと有難うの挨拶の心をこめてていねいに踊り、獅子の毛振りは親子だけにきれいに揃い、楽日には数えていたら最後のところで八十八回も振ったのよ、と友人から報告があった。お客が熱狂して
、嵐のような拍手が十二分間も続いたが、とうとうみんなが諦めて帰るまで幕は上がらなかった。これもあとで聞くと同じ理由で、
「お客さまには気の毒だったけど、中村座とは違うんだから、勝手をしてはほかの先輩方に悪いでしょ」
ということだつた。
 結局この伝説の名舞台が、私たちが観る中村屋最後の『連獅子』となった。
 先代は、傘寿では是非とも孫獅子と踊りたいと希望を語ったといぅがついに叶わず、中村屋の孫獅子との共演を観たいと願った私たちの夢も、虹のようにはかなく消えてしまった。

第五章 命あつてのもの
第六章 二十ニ歲下でも海老蔵は友だち
第七章 「わたIの若い友人」ヒ書く作家
第八章 新Iい世界への挑戦
第九章 夢の地因
第十章 勘三郎の出会った人々
第十一章 思い出走馬灯
【関連読書日誌】

  • (URL)“人が人を本当に好きになるということは、こんなにもその人生に深く根をおろすものなのか” 『中村勘三郎の「告白」 関容子 文藝春秋 2013年 02月号

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

KANKURO V FINAL~五代目 中村勘九郎 最後の「連獅子」~ [DVD]

KANKURO V FINAL~五代目 中村勘九郎 最後の「連獅子」~ [DVD]

連獅子/らくだ [DVD]

連獅子/らくだ [DVD]

歌舞伎名作撰 野田版 研辰の討たれ [DVD]

歌舞伎名作撰 野田版 研辰の討たれ [DVD]

“回復に至る道とはどんな道か。クラィエントとセラピストが共にいて、同じ時間を過ごしなから手探りで光を探す。心の底にひそんでいた自分でさえ気づかない苦悩、悲哀にそつと手を差し伸べる。一人では恐ろしい深く暗い洞窟でも、二人なら歩いて行ける” 『セラピスト』 最相葉月 新潮社 (2/2)

セラピスト

セラピスト

 中井久夫による絵画療法を受ける。さらに、中井久夫に対して絵画療法を試みる。中井久夫とのコミュニケーションの中で、次の二つのことについて、会話がなされたかどうか、あったとすれば、どんな内容であったのか知りたい。一つは、野口英世のこと。星一は、野口のパトロンであったし、中井には、野口に関する著作がある。二つめは、霜山徳爾のこと。
第6章 砂と画用紙
P.189 1969年11月22日、第1回芸術療法研究会

この日、研究会を主宰する晴和病院の医師、徳田良仁の招きで、河合隼雄が関東の精神科医たちの前で箱庭療法を紹介することになっていた。精神医学界との接点は児童精神医学の領域にあるのみで反応が今ひとつだったところ、研究会の創設メンバーの一人であり、フランクルの『夜と霧』の翻訳者として知られる心理学者の霜山徳爾が、評判を聞きつけて河合を推薦したのである。
 芸術療法研究会は、精神医学と心理学の想根を取り払い、学派を乗り越えて、芸術の視点から人間を考えようとする人々の集まりだった。

P.190

ところが、芸術療法研究会が生まれる母胎となつた晴和病院は、都心の一角にありながら広大な緑に囲まれ、そこだけが世の動きとは無縁であるかのように穏やかな空気に包まれていた。患者を閉鎖病棟に拘束し、床に穴を開けただけのトイレに垂れ流し。そんな劣悪な精神科病院に患者を入院させることをしのびないと考えた東大教授の内村祐之が、精神科病院の改善を目指して創設した病院だつた。

P.194

ユングのいつている通りにならないのは、患者がユング心理学をちやんと勉強していないから。河合はそういって会場を笑わせるとすぐ真顔に戻り、患者がたとえ思うとおりに玩具を置いてくれなくても、われわれ治療者は理論にとらわれず、解釈するというよりは鑑賞する、そんな患者との関係性に治療の根本があるのではないかと考えていると語った。

P.199

中井が病棟を歩きながら思い描いていたのは、個別研究を通じてモデルをつくることだった。モデルとはつまり、一般化することである。夕ーゲットとしたのは、当時、まだ混沌としていた精神分裂病、現在の統合失調症だった。

P.204

中井はまず、精神医学が精神病患者の描画活動に着目してから百年あまりの歴史を見渡し、そこに、二つの問題点があると指摘している。
 第一に、臨床では、なによりも徹底した研究が不足し、一般化への指向性が希薄だったことだ。一般化への指向性が希薄であるといぅのは、特殊な一例や興味ある一例を採集するばかりで、科学的な視点に欠けるということである。
(中略)
従来の描画研究のもう一つの問題点は、この論文の直前に、一般誌「ユリイカ」に中井が寄稿した「精神分裂病者の言語と絵画」という随筆の次の一節に集約されるだろう。

精神病理学は分裂病者の言語がいかに歪められているかを記述してきた。おそらく、それが真の問題なのではない。真の問題の立て方は、分裂病の世界において言語がいかにして可能であるか、であろう。(中井久夫著作集第1巻『精神医学の経験 分裂病』)

P.210

沖縄の医療法人和泉会いずみ病院理事長、高江洲義英はそう振り返る。
当時、束京医科歯科大学にいた高江洲は、学部ニ年から四年までは大学のストライキでまともに講義が受けられなかつた世代である。五年になつてようやく島崎敏樹や宮本(忠雄)に師事し、芸術療法研究会にはこの第三回から参加していた。

P.214 中井の最初の研究発表の場は、土居が関わったワークショップ。1973年

土居は、精神分析のメッカ、アメリカのメニンガー精神医学校やサンフランシスコ精神分析協会で厳しい修業をした精神分析の大家である。留学中に「甘え」というキーワードに着目し、日本人の心理と社会構造を「甘え」とその変容をもとに読み解いた『「甘え」の構造』は、一九七一年に出版されて大べストセラーとなり、世界各国で翻訳されていた。

P.221

これは中井先生がご自身で発見されたことですが、風景構成法というのは、あいまいなものを提示して心理的特性を見出す“投影法”としての側面と、箱庭療法のように心理療法でありながら“溝成法”でもあるという側面を併せ持つんですね。

P.222

1970年三月には、朝=新聞の大熊一夫記者がアルコール依存症を装って精神科病院の潜入取材を行った「ルポ・精神病棟」の連載が始まった。
(略9
 1960年代初めに登場した抗精神病薬に懐疑的な声が上がったのもこの時期である。
(略)
そんななか、芸術療法の芽が秘かに育まれ、統合失調症は世界に類のない発展をみせた。とりわけ中井が際立っていたのは、京大ウイルス研究所に在籍しながら学術振興会の流動研究として東大伝染病研究所で研究していた頃、楡林達夫ペンネームで『日本の医者」(1963)という体制批判の本を著していること。にもかかわらず、その画期的な臨床研究から、教授陣にも一目を置かれていたことだろう。
 初期の芸術療法研究会が表現病理優先の風潮であるために外から冷ややかに眺めていた山中は、中井のこんな一言を機に参加を決断したといぅ。
「外にいていくら大声を出しても誰も振り向かないよ。むしろ内部に入つて改革していつた方がほんとうなのだよ」

第7章 黒船の到来
P.230

 サリヴァンはテープレコーダーのない時代に、患者とのやりとりを記録した初めての精神科医だったといわれる。二階の診察室から一階にいる速記者にマイクで問答を伝えて記録させ、論文にその逐語録を掲載している。カール・ロジャ―ズのように録音に基づく完全な問答を書籍として出版したわけではない。そのため日本人の目にはほとんど触れなかつたが、密室で行われる治療者と患者のやりとりを公開し、治療者が自らをも第三者の目に晒されるという点では誰よりも先んじていたことになる。

P.236

 日本語で、「精神障害の診断と統計の手引き」と訳されるDSMは、第三版以降、これまでの精神医学の分類を塗り替え、現在、世界標準として君臨している診断基準である。第三版というからには第一版、第二版があるわけだが、第三版がこれまでの版と違うのは、公式の診断基準として初めて操作的診断基準を採用したことだった。それまでの診断では、たとえば、気分が沈んでいても内分泌系の異常でなければうつ病とは診断されない。気分が沈む原因は、内分泌系以外にもいろいろ考えられるからである。
 ところが、操作的診断基準ではそうは考えない。二週間以上気分が沈んでいて、明らかにほかの病気といえない場合は、うつ病と診断する。操作的診断とは、一言でいえば、病気の原因や経過ではなく症状に着目して診断する方法といえるだろうか。多くの臨床デー夕に基づいて、たとえば、九つの症状のうち五つあてはまれば〇〇病と診断する、という具合である。

P.238
私はDSMが登場する前と登場後の過渡期を知る医師やカウンセラーに会うごとに、DSMの臨床現場への影響について訊ねてみたが、誰もがロをそろえたのは、これでようやく混乱が収まつた、ということである。優れた医師でなければ診断できないというのではなく、ある程度の教育を受けていれば誰もが診断でき、一定の水準を保てる、つまり、全体を底上げできるということである。
 だが、一方で、文化も言語も歴史も異なる国の精神疾患が同じ基準で診断できるわけがない、という批判の声も聞こえてきた。「日本人は間やあいまいさを大切にする民族なのに、DSMによつて患者ではないのに患者にさせられた人はたくさんいる」と語つた病院勤務の臨床心理士もいた。

P.247

 2013年5月、DSM―IVから十九年ぶりに新しいDSMDSM―5が発表された。改訂の最大の特徴は、「ディメンション的診断システム」といい、患者が経験しているはずのある症状をもとに系統的に評価する方法が採り入れられたことである。症状の有無だけではなく、重症度や経過による変化も評価の対象となる。自閉症アスペルガー障害といつたサブカテゴリーを含む広汎性発達障害自閉症スぺクトラムへと名称変更され、一元化されたことなどが目を引くが、日本の臨床現場で明日から基準が変わるといぅことではない、と黒木はいう。一71介されたことなどがox.を
弓くが、日本の臨床現場で明nから基準が変わるということではない、と黒木はいう。
 「一九八〇年のDSM-3の登場は、精神医学の中心がヨ― ロッバからアメリカに移ったという点で確かに大きな影響がありましたが、DSM―5は露骨にアメリカの覇権主義です。これによって日本の臨床現場が混乱するかというとそうではない。今は時代が違います。アメリカの一つの現象として捉えておけばいいでしょう。 
 もっとも、早期発見、早期介入という予防匿療、プラィマリケアにも重点が置かれているため、日本でもこれを精神科医が担うべきなのか、一般の内科医が担うのかについては、早晩、議論が起こると思います」

P.248

 中井の理想とするのは、七床あたり一人の医師である。この本が書かれた一九八ニ年の基準は、五十床に一人だった。現在はどうかというと、内科や外科などを有する百床以上の総合病院や大学病院の精神科で十六床に一人、それ以外は四十八床に一人である。医師の数は一九九八年からの十年間でニ割増え、個人クリニックの数も増加しているが、患者数の増加には到底追いつかない。看護師の数も同様である。スタッフ不足のために「薬で、患者さんにおとなしくしてもらわないと、対応できない」(朝日新聞ニ〇一三年八月二十日朝刊)といって、三種類以上の薬を投与する病院もある。薬物治療が大きく進展したとはいえ、副作用が気がかりであり、これでは患者と医師の間に信頼関係など築きようがない。

第8章 悩めない病
2000年頃から学生相談に来る学生に大きく変化があらわれたという。
 一つは、「悩めない」学生の増加。漠然と不調を訴えるものの、内面を言語化でいない。
 二つめは、「巣立てない」こと
 三つめは、「特別支援」を要する学生の増加。いわゆる発達障害
この30年の大きな変化
 対人恐怖症を訴える人の減少
P.298

学生を指導する中でも、クライエントを見ても、父・河合隼雄の時代とは明らかな違いを実感する、と河合(俊雄)はいう。
「世の中は、クライエントもセラピストも、従来の心理療法に向かない人が増えています。実習でロールプレイをやっていても、相手がしやべっているのを待っていられない。ためることができない。そんな学生が増えてきました」
 臨床心理士を目指す学生たちも、ですか。
「そうです。今は、全部が表面の世界なんです。たとえば、ツイッ夕ーにぽーんと書き込むとみんなが知っている。しかも、RT(リツイート)というかたちで他人の言葉が引用されて広がっていくので、どこからどこまでが自分の言葉かという区別もない。秘密とか、内と外の区別がない世界なので、自分にキープしておくことがなかなかできなくなつているんですね。心理療法というのは主体性があつて自分の内面と向き合える人を前提としていますから、内と外の区別のない場合は、相談に来ても自分を振り返ることが非常にむずかしいんです」

第9章 回復のかなしみ
P.314

回復に至る道とはどんな道か。たんに症状をなくせばいいというのではない。かといって、ありのままでいいということでもない。クラィエントとセラピストが共にいて、同じ時間を過ごしなから手探りで光を探す。心の底にひそんでいた自分でさえ気づかない苦悩、悲哀にそつと手を差し伸べる。一人では恐ろしい深く暗い洞窟でも、二人なら歩いて行ける。同行二人という言葉が浮かんだ。

あとがき 
P.334 最後に、
>> 
この世の中に生きる限り、私たちは心の不調とは無縁ではいられない。医療だけでなく、社会的なサポートの充実が急がれる。ただ、よき同行者とめぐり会えたとしても、最後の最後は自分の力で立ち直つていくしかない。

“箱庭療法はつまり、言葉にしないことに意味があるということなのか。では、言葉にしないことでなぜ回復につながるのだろうか。患者がいて、そばで見守る治療者がいて、共に箱庭を鑑賞する。そんな日々を重ねるだけでなぜ人が治るのか” 『セラピスト』 最相葉月 新潮社 (1/2)

セラピスト

セラピスト

堀川惠子『教誨師』(講談社)と同時期に上梓され、たまたま同じ書店で見つけ、同時に購入。この二著作、扱っている具体的対象は異なるが、教誨師とセラピスト、人を救う、否、人に寄り添う行為、と言う点で大変近い。実は、当然御ことではあるかも知れないが、この二人は、大変近いところを取材している。堀川惠子の前作『永山則夫 封印された鑑定記録』(岩波書店)で、鑑定記録を残した石川義博医師の師が土居健郎であり、本書で取材した一人、中井久夫が師と仰ぐのも土居健郎だからである。
 最相葉月氏の著作の中でも出色のものである。主たる取材対象は、故河合隼雄の流れをくむ人たちと中井久夫。第二次大戦以降の近代科学の流れの中で、ユングフロイト精神分析というと、少し距離をおいてみてしまうところがある。いわゆる、アメリカを中心としたカウンセリングの起源、日本への流入、発展の経緯が丁寧に書かれており、日本のカウンセリング史が非常に良くわかる。そして、河合隼雄中井久夫が果たしてきた役割についてもよくわかる。さらに、特徴的な点は、取材を通してたどりついた、著者最相葉月自身の考えが強く表れている点である。その理由は本書の最後で明らかになる。

さあ、そろそろ書き始めてみようか。この五年間、おずおずと歩き回った心理療法の界隈について。私が見たカウンセリングの世界、守秘義務といぅ傘の下にある、人と人の心の交わりと沈黙について――。

第1章 少年と箱庭
P.48 故河合隼雄を知る木村晴子を訪ねる

「そうそう。夢分析箱庭療法を比べたとき、どちらのほうが深いかとよく議論になるんですが、夢のイメージはたしかに深いところから出てくるけど、相手に伝えるときに言葉にするでしょう。そうしないと語れませんからね。言葉にしたその時点で、削ぎ落とされてしまうものがある。だから、言葉にしないぶん箱庭のほうが深い。箱庭びいきからいわせるとね」
 箱庭療法はつまり、言葉にしないことに意味があるということなのか。では、言葉にしないことでなぜ回復につながるのだろうか。患者がいて、そばで見守る治療者がいて、共に箱庭を鑑賞する。そんな日々を重ねるだけでなぜ人が治るのか。そもそも、治る、回復する、とはどういうことなのか。

P.50

河合隼雄も生前、「深い治療をしようという人は、自分のことをよく知つていないとだめです。自分自身をよく知るためにも、カウンセラ―になる人はカウンセリングを受けるのがよろしい」(『カウンセリングの実際問題』)と書いている。
 彼らがそこまで強調するのは、自分を知るということが、プロの臨床家として活動するための出発点であり、患者や相談者を守る技術だからなのかもしれない。

第2章カウンセラーをつくる 東洋英和女学院大学大学院へ自ら通う
そこの学生の談

「感動的な瞬間ではあるのですが、手探りで読んでいた心理学の参考書にあった集団精神療法に似て、その人の感情の深いところまで刺激するため、主催する側に十分な知識と経験、注意深さがないまま実施すれば、これが引き金となって精神的な病を発症する人が出てしまうかもしれない。困っている人のためにと思ってしていることが、一方でダメージを与える危険性もある。それは恐ろしいことなのに、心理学のことを何も知らずにやっていていいのかと思ったんです。幸い、心理学の知識をインプットすれば数年後には会社の知的財産になるはずだと上司もいってくれている。うちの会社はMBA (経営学修士)をもつ人は結構いるんですが、心理学で大学院に行った人はいないので、何か発信できることがあるのではないかと思っています」

P.64

人と人が関わり合えばそこになんらかの感情がわき上がるのは当然で、その感情がカウンセリングの方向性に与える影響は計り知れない。この感情について最初に指摘したのは精神分析の創始者ジグムント・フロイトで、クライエントが医師やカウンセラー、すなわち、セラピストに抱く感情を「転移」、逆にセラピストがクライエントに抱く感情を「逆転移」と呼んだ。

P.67 河合隼雄氏の講演から

われわれ臨床心理土が社会の要請に応えてやることの根本にこのことがあるというふうに思います。「真つ直ぐにきちんと逃げずに話を聞く」ということ、これがなかなか社会の中で行われていない、これは家庭の中でも行われていない、会社の中でも行われていない、友人同士でも行われていない、それをわれわれはきちんとするということだと思います。 (「基調講演臨床心理士への社会的要請をめぐつて」)

P.77

「カウンンセラーが一人前といわれるには、二十五年はかかるといわれています」
研修機関で講師を務めるベテラン臨床心理士の言葉を聞き、大学院で出会った人々がこれから向き合わねばならない多くの困難を思つた。

第3章 日本人をカウンセリングせよ
P.79

今日的な意味でカウンセリングという言葉が使われるようになつたのは、二十世紀初頭のアメリカである。急速な工業化を背景に都市部の人口が急増し、失業や貧困、スラム化などの問題を抱えることになつた当時の社会で、ほぼ同時期に展開した、三つの分野――職業指導、教育測定、精神衛生――での運動を起源とする。

P.113

河合は自伝『未来への記憶』においても、ロジャーズの功績を大きくニつ指摘している。一つは、カウンセラーの受け答えによつてクライエントの話が左右されると説いたこと。もう一つは、精神分析の理論を携えずともカウンセリングができることを逐語録をもとに明快に示してみせたことである。

第4章 「私」の箱庭
P.129 木村晴子の論文「中途失明女性の箱庭製作」のクライエント、伊藤悦子さん

伊藤はこの頃、キユーブラ・ロスの『死ぬ瞬間』を読み、視力をなくしていく過程は死を宣告された人がそれを受け入れていく過程に似ていると感じていた。この本は、死を宣告された人が①否認と孤立、②怒り、③取引、④抑うつ、⑤受容、の五段階の過程を辿るという「死に至る五段階説」で知られ、この説ばかりが一人歩きして多くの誤解や批判を招いていた。しかし伊藤は、精神科医であるキユーブラ― ・ロスが終末期にあるニ百人以上の患者に向き合い患者自身に自分の病気や死について語ってもらった、対話そのものに本書の素晴らしさがあると思った。

第5章 ボーン・セラピスト
P.160 生まれながらの治療者、と呼ばれる山中康裕京大名誉教授、

Y少年や伊藤悦子の箱庭の経緯を見た今では、山中のいうこともわかるような気がする。回復には言語を必ずしも必要としないこと。絵を描いたり砂の上に玩具を置いたりするとき、クライエントは必ずしも意識的ではないこと。それでも、箱庭や絵画にィメ―ジの世界が展開することによってクラィエントは変容すること。言語や意識が人を治す、ではなく、言語や意識が介在しなくても人は回復する、である。

P.162

 たとえクライエントが沈黙していたとしても、箱庭に展開されるイメージをてがかりにすれば、クライエントの変化が読み取れる。精神分析やロジャースの方法など、クライエントとセラピストの対話のみで成立する心理療法が、クライエントが沈黙する手立てを失ってしまうのと対照的である。

【関連読書日誌】

  • (URL)“どのような過ちを犯した時も、どんな絶望の淵に陥った時も、少しだけ休んだら、また歩き出す力を持ちたい。人は、弱い。だからこそ、それを許し、時には支え、見守ってくれる寛容な社会であることを心から願う” 『教誨師』 堀川惠子 講談社

【読んだきっかけ】東京丸の内丸善で購入。
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“どのような過ちを犯した時も、どんな絶望の淵に陥った時も、少しだけ休んだら、また歩き出す力を持ちたい。人は、弱い。だからこそ、それを許し、時には支え、見守ってくれる寛容な社会であることを心から願う” 『教誨師』 堀川惠子 講談社

教誨師

教誨師

2013年の『永山則夫 封印された鑑定記録』(岩波書店)で第4回いける本大賞、2011年の『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』(講談社)で第10回新潮ドキュメント賞、2009年の『死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社)で第32回講談社ノンフィクション賞を受賞してきた、フリーのドキュメンタリーディレクターによる最新著作。受賞作の内容はNHK等でTV放映されてきたものであり、それも賞を受賞している。著者としては名を連ねていないが、2007年の『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』も、実質的には、堀川惠子の手になる本と言ってもいいだろう。
 その堀川の次の作品に期待していたが、BC級戦犯教誨師を取材し、死刑制度を扱ってきた著者であるから、教誨師の存在に行き当たるのは、ある意味必然であったかも知れない。そこには、著者ならではの出逢いと、取材があった。とはいえ、これは重たい、あまりにも重たい取材であったに違いない。
 帯より

死刑囚と
対話を重ねた
ある僧侶の一生

戦後、半世紀にわたり死刑囚と向き合い、
「悟り」を説いてきた、ある僧侶。
死刑執行にに立ちあう過酷な任務に身を削りながら、
誰にも語れなかった懊悩。
人は人を救えるのか−−。

その僧侶が、「真面目な人間には教誨師は出来ません」「突き詰めて考えておったりしたら、自分自身がおかしゅうなります」と言い、くれぐれも「わしが死んでから世に出して下さいの」といって、重い口を開いたものがたりである。
P.13

渡邊との会話の糸口を探ろうと、世に出ている記録を調べると思わぬ事実に直面した。教誨師自身が自分の体験について書き留めた書物が、ある時期からぴたりと無くなっているのだ。最後に出版されたのは、『教誨百年』(教誨百年編慕委員会編・浄土真宗本願寺派本願寺大谷派本願寺)という重厚な上下二巻の本。宗教教誨にかかわってきた僧侶たちが明治以降の教誨の歴史をまとのたもので、発行は昭和四八年(一九七三)とある。ただし非売品で一般には出回っていない。
 これ以降、具体的な教誨にかんする書物は消えてしまっていた。背景には、拘置所の管理体制が強化され、獄内での出来事は一切、口外無用となつたことがあるようだった。法務省による通達で、教誨師は拘置所内で知り得た情報を口外してはならないと定められている。それは、家族や教誨師どうしの間であってもだ。

P.33

一方で、渡邊を「死刑囚の教海師」という世界へ誘うことになる篠田龍雄とはどのような人物だったのか。その人生を辿っておきたい。そこに見えてくる「型破り」とも言える足跡は、、当時の浄土真宗の世界でも知る人ぞ知る、後の語り草になるほどのものだった。
篠田は明治二九年(一八九六)、福岡・直方の浄土真宗・西徳寺の長男に生まれている。

P.82

死刑囚への教誨に限らず、現在、全国の拘置所、刑務所、少年院には約一八〇〇人の教誨師が活動している。決して楽ではない仕事だが、教誨師の職に就きたいと名乗り出る宗教家は多いらしい。新興宗教も、ある程度の組織が出来ると必ず教誨活動への参加を申し出る。その理由について渡邊は、「教誨師」という言葉は、宗教家として身にまとう肩書としてまことに美しい響きを持つているからだと嘆いていた。

P.125

 本来なら裁判で事件を犯すに至った経緯を詳しく調べ、曲がりなりにも彼らの言い分を聞き、止むを得ない気持ちも酌んでやった上で判決を下せば、たとえそれが死用判決でも彼らなりに納得して刑に服すことも出来るかもしれないのに、と渡邊はいつも思ったものだ。なぜなら、彼らは独房で幾度となく判決文を読み直すからだ。いわば判決文は、彼らの人生最後の通知簿だ。しかし、そこで情状酌量の余地など認めれば、ひとりの人間をこの世から抹殺する死刑判決など下せるはずもない。だから多くの死用判決は、そこら中に落ちている日常のちょっとした出来事まで殺人の背景を形づくる材料としてかき集め、一方的に断罪することに腐心しているように渡邊には思えた。殺人者の話に耳を傾けようとする者などいない。

P.194

その昔、検察官は自分が死刑を求刑した事件に限って立ち会いをしたというが、組織の運営上、人繰りがつかなくなり、今ではその検察庁へ着任した順の新しい方から機械的に選ばれるようになっていった。

P.202

 その背景には、法務省が一切情報を提供しないので考えようにも材料がないという事情があるのではないかと私が指摘すると、渡邊はこう漏らした。
「役所がね、情報を出したがらないのは、わしは理解できるんです。そりやあ、外に出せるようなもんじやないですよ、あれは。だから一般の人は死刑っていうものは、まるで自動的に機械が行うくらいにしか思ってないでしよう。何かあるとすぐに死刑、死刑と言うけどね、それを実際にやらされている者のことを、ちっとは考えてほしいよ」

P.205

 現行の絞首刑、つまり上から下へと人体を落として吊るす「ロング・ドロップ方式」は、明治時代、文明国であったイギリスの方式に倣って取り入れられた方法だ。鎖国を解いて開国した日本が列強諸国と対等に向き合うために、具体的には不平等条約を改正させるために、様々な分野で文明国のやり方を模倣していった。その一連の流れで「死刑」も、それまでの磔や火あぶり、釜茹で、晒し首といった野蛮な執行方法を改めることになった。

P.207

オーストリア法医学会の会長も務めたヴァルテル・ラブル博士は、絞首された人間がどのように死に到るかという少し変わった研究をしている研究者である。彼は、絞首された人間の意識は多くの場合、数分以上続いていることを示すデータを、五つの死因(動静脈圧迫による窒息、椎骨骨折、迷走神経損傷による急性心停止など)に分類して詳細に発表している。

P.208

 いずれにしても現在、死刑を存置する国々においても、その残虐性を理由に絞首刑は次々と廃止されている。もちろん、当時は文明国として最新の絞首刑を行つていたィギリスも、一九六九年(厳密には一九九八年)に死刑制度そのものを廃止した。
 “残虐性”を巡る定義は、時代の変遷、言い替えれば人類の文明の進歩と共に移り変わっている。「絞首刑」をいまだ維持し、毎年、執行し続けているのは、先進国では日本だけとなつた。そして、その現場に立ち会う人々の苦しみも今なお続いている。

P.222

 世間では、加害者が更生したかどうかを判断する時、「被害者から見て」心から反省したと認めた時、という条件をつけたがる。しかし「それは違うよ」と渡邊はよく言った。
(略)
 世間から完全に切り離され、どんなに反省しようとも死刑という運命しか与えられない彼らに、前述のような厳しい条件を克服することは不可能だと渡邊は言う。そして渡邊自身の教誨師としての心残りもまた、被害者と加害者をつなぐことが出来なかったことだと打ち明けた。

P.236
 いつ頃からか、渡邊は面接のためにと熱心に読み込んでいた死刑囚の身分帳にも、ほとんど目を通さなくなっていた。時間がなくなったからではない。庶務課のたった一枚の薄い扉を開けさせることを、体全身が拒んだ。その人間を深く知れば知るほど、最期の瞬間は耐えられないものになっていくからだ。

P.266
 しかしアルコール依存症になって、人生に足踏みをしてから気がついた。自分の教誨は一方通行だった。教誨の「誨」に、「戒」という字は使わない。それは、彼らを「戒める」仕事ではないからだ。「誨」という字には、ねんごろに教えるという意味が込められている。それなのに自分はいつも大上段に構え、何かを伝えなくてはと焦ってばかりいた。

P.277 終章

 私たちは、死に向かって生きるのではない。迷いを重ねながらも、最後の瞬間まで間違いなく自分という命を生き抜くために、生かされている。そうであるならば、どんな不条理に満ちたこの世であっても、限られた時間、力を尽くして生きたいと思う。どのような過ちを犯した時も、どんな絶望の淵に陥った時も、少しだけ休んだら、また歩き出す力を持ちたい。人は、弱い。だからこそ、それを許し、時には支え、見守ってくれる寛容な社会であることを心から願う。

【関連読書日誌】

  • (URL)“土居の第一世代の弟子となった石川は、土居が亡くなる二〇〇九年まで四五年間、「土居ゼミ」に通い、最期まで師事した” 『永山則夫 封印された鑑定記録』 堀川惠子 岩波書店
  • (URL)“私たちはまず、判断の材料となる「事実」を知ることから始めなくてはならない” 『絞首刑は残虐か(下)』 堀川惠子 世界 2012年 02月号 岩波書店
  • (URL)“私たちは当たり前のように享受しているこの「戦後」を、二度と「戦前」に引き戻してはならない” 『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』 田原総一朗監修 田中日淳編 堀川惠子聞き手 アスコム

【読んだきっかけ】東京丸の内丸善で購入。その日の晩に読み切り。
【一緒に手に取る本】

永山則夫 封印された鑑定記録

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裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

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死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの

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チンチン電車と女学生

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日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書

日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書

“「一番小さな声を聞け」というルールに従うなら、この場合、被害者遺族がそれだ。手紙を書き、末尾に自分の携帯の番号を書き入れてポストに入れた。私は手紙ばかり書いている” 『殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』 清水潔 新潮社

足利事件と呼ばれた事件でえん罪とされた菅野さんが無実となって釈放されたことはよく知られている(もう忘れられつつあるかもしれない)。足利事件を含む複数の幼女誘拐殺人事件に、真犯人がいることを告発する書、そしてそれを警察が再捜査しようとしないことを告発する書、そして、日本の警察機構、司法、マスメディアの問題を指摘する書である。筆者は、足利事件等の報道で、多くの賞を受賞しているジャーナリスト。2014年2月9日朝日新聞の書評欄に、福岡伸一氏による「執念に満ちた取材で闇に迫る」と題する書評がでた。「たいへんな問題作である」で始まる。その通りであろう。帯に「この本を読まずに死ねるか!」とあるが、それは少し大袈裟な気がする。TBSの報道特集や、NNNのバンキシャ!における調査報道をみてきたものにとって、本書で書かれている内容、あらましは、ほぼ知っている事実である。しかし、一連の報道が関連づけられて、整理されて書籍化されたことの意義は大きいであろう。日本の警察機構、司法制度に残された怖さは、認識しておくべきことである。桶川ストーカー殺人事件の顛末とその本質、解明に尽力したのは同じ記者(筆者)によるものであることは本書で初めて知った。福岡氏は書評で、「どうやってルパンを特定できたのか。機微なことが一切書かれていない」ことを欠陥として指摘したが、それは、被疑者の人権を守るためのジャーナリストとしての矜恃ではないだろうか。黒いファイルの中身はいつか明らかになるだろう。
P.58

この鑑定を担当したのは、科警研法医第二研究室のM室長、主任研究官のS女史、そしてアメリカでの研究を元にMCT118法を導入したとされるK技官。目新しいこの捜査方法に警察は高い評価を与え、マスコミもまた絶賛。「時の人」となつた彼ら三人は、新聞の写真人りインタビュ―記事にも登場していた。

P.144

私は事件を報じるにあたつては、どうしても詩織さんの遺族に会いたかつた。「一番小さな声を聞け」というルールに従うなら、この場合、被害者遺族がそれだ。私は猪野家を取り巻く他社同様、断られることを覚悟の上で詩織さんの遺族に取材を申し込んだ。手紙を書き、末尾に自分の携帯の番号を書き入れてポストに入れた。昔も今も変わらない。私は手紙ばかり書いている。

これは、桶川ストーカー殺人事件について解説した一節。被害者が残した「遺言」をもとに、警察発表にのせられることなく真摯な取材と続けてきた筆者は、遺族への取材がかなう。
P.147

 苛立ちと無力感ばかりを募らせていた私の前に救世主のように現れてくれたのは、記者クラブとは直接関係のない民放テレビ局の情報番組だった。テレビ朝日のキャス夕ー鳥越俊太郎氏などが県警の怠慢捜査の問題点をオンエアしてくれたのだ。
 番組の視聴者に民主党女性議員がいた。
 彼女は「これは変な問題」と認識し、上尾署も県警本部も飛び越えて、国会の予算委員会という場で私の書いた記事を読み上げた。「〈だめだめ、これは事件にならないよ〉〈男と女の問題だから、警察は立ち入れないんだよね〉これは事実なのでしようか?」と議員は警察庁刑事局長に詰め寄った。
 国会質問をきっかけに、事態は大きく動き出す。

P.178

 検察官との面会を終えて出てきた松田さんから経緯を聞いた私は、思わず呟いていた。
 被害者鑑定をやつてなかつたんだ……。
 これは重大な疑惑を孕んでいる。今になつて松田さんのDNAを採取しなければならないということは、事件当時の科警研は、被害者や関係者の型すら解らぬまま鑑定を実施していた可能性が高い。つまり、シャツから「引き算」せぬまま科警研は犯人の型を決めていたということで、そうであるなら極めて危険な鑑定と言うほかない。
ところで、松田さんと検察官との話は意外な方向へと向かつた。

松田さんとは、養女誘惑殺人事件の被害者の一人の母である。
P.179

水面下で密かに行われていたこの被害者鑑定を取材していたのは私だけだった。報じなければ、この事実は誰にも知られることなく消えていくに違いなかった。私は五月三一日の『バンキシャ!』を皮切りに、いくつもの番組で「ごめんなさいが言えなくてどうするの」という松田さんの言葉と今さらの被害者鑑定を流し続けた。

P.192

昼間は単調な作業が続く。ベルトコンベアに載つたピンクとブルーのゴム手袋をビニ ール袋に詰める作業。菅家さんは「そのゴム手袋が羨ましかつたんですよ」と洩らした。家事に使われるその製品は、やがて塀の外に出て行けるからだ。

切ない。
P.197

誰もやつてくれないのならば。
「桶川事件」では殺人犯を特定し、警察に情報を提供した。ニ〇〇六年には静岡県浜松市で起きた強盗殺人事件犯人のブラジル人を一万八千キロ追跡し、ブラジルの片田舎で発見、取材後に男の居場所を静岡県警に通報した。翌〇七年に男は代理処罰という形で禁錮三四年という判決を受けた。

P.258

窮すれば「個別の事件については云々」「法と証拠にのっとって云々」と使い分ける法務省の答弁には腹立たしいばかりだったが、この三日後、柳田稔法務大臣が放言した。
『法相はニつ覚えておけばいい。『個別の事案については答えを差し控えます』これは良い文句です。あとは、『法と証拠に基づいて適切にやっております』と。まあ、何回使つたことか」なるほど。それでか。私は膝を打った。法務省法務大臣の「仕事」ぶりには呆れるしかないが、〈法相就任を祝う会〉で放ったこの一言で、柳田大臣は辞任に追い込まれた。あんな答弁がまかり通ることに怒りを覚える人間が私だけではないのだと知つて、少々ホツとした。

P.285

 当局は、まさか数ヶ月後に「足利事件」の再鑑定が不一致になろうとは夢にも思つていなかつたのだ。後は、法務省という縦割り組織が、隣で何をやつているのかもわからぬままにお役所仕事を遂行したのだろぅ。周辺を取材しても、そんな話しか出てこないし、万が一にもMCT118法が「問題になるかもしれない」といぅ可能性を少しでも把握していれば、むしろそんな危険な死刑を執行するはずがない。私には、単に縦割り組織の失態としか思えないし、この失態こそが、のちに大きな闇を形成せざるを得なくなつた理由ではないかとすら思える。

足利事件のえん罪がはっきりし、そのDNA鑑定に疑義がもたれていた時期に、同じDNA鑑定で犯人とされて死刑判決を受け、再審申請を準備していた飯塚事件の被疑者が、死刑を執行された。この事実をTV番組で知った時は、背筋が寒くなるおもいをしたものである。
P.307

 別の死刑執行に立ち会った経験を持つ元検事に話を聞いてみることにした。
「確定判決が出た検察庁から、検事が死刑に立ち会うんです。執行までが長いので、公判を担当した検事はすでに異動していない場合がほとんどですから」
 話を聞いて意外に思った。死刑求刑をする検事と執行に立ち会う検事は別だというのだ。立会者は法務省から送られた関係書類を読んで、事件内容を理解した上で拘置所に向かうのだという。

【関連読書日誌】

  • (URL)“土居の第一世代の弟子となった石川は、土居が亡くなる二〇〇九年まで四五年間、「土居ゼミ」に通い、最期まで師事した” 『永山則夫 封印された鑑定記録』 堀川惠子 岩波書店
  • (URL)“現象は一元的ではない。多元的で複層的だ。複雑に絡み合っているからこそ、僅かな歯車の食い違いが大きな過ちへと転化して、なし崩し的に事態が進行する” 『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』 森達也 ダイヤモンド社
  • (URL)“本当の悪魔とは、巨大に膨れ上がったときの民意だよ。自分を善人だと信じて疑わず、薄汚い野良犬がドブにおちると一斉に集まって袋叩きにしてしまう。そんな善良な市民たちだ” ノベライズ リーガルハイ 2 古沢良太(脚本), 百瀬しのぶ(ノベライズ) 扶桑社

【読んだきっかけ】書評。購入当日、一晩で読み切り。
【一緒に手に取る本】

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)