“男にも女にもいろんな生き方があり、いろんな幸せがあるのだということが、この国の常識になるのはいったいいつの日だろう” 『如月小春は広場だった―六〇人が語る如月小春 』 『如月小春は広場だった』編集委員会(西堂行人+外岡尚美+渡辺弘+楫屋一之) 新宿書房
- 作者: 『如月小春は広場だった』編集委員会
- 出版社/メーカー: 新宿書房
- 発売日: 2001/12
- メディア: 単行本
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気になりつつも如月小春の舞台を観る機会がなかった.それが突然,NHKブックレビューの司会者と現れたときは,驚いたものです.知性あふれるすばらしい司会ぶりでした.
60人もの寄稿者,そしてその幅の広さに驚かされる.演劇関係者はもとより,安藤忠雄,細川周平,辻仁成,高橋悠治,坂本龍一,柏木博,河合隼雄,福原義春など.
もし,存命であれば,日本の演劇界をリードする一人であったことは疑いないし,女性の新しい生き方についても大きな影響力をもっていたに違いない.そのことは,この本で描かれている,彼女の活動や発言から切々と伝わってくる.
冒頭に「寺山さんの眼」と題する本人による小文が掲載されている.若い頃の寺山修司との邂逅をつづった文章である.如月は,大学卒業後,親の冷たい視線を背中に感じつつ,いったんは演劇をあきらめ仕事をしていたが,演劇に対する想いも捨てきれずいて,仲間とともに,あと1回だけ,というつもりで,『家、世の果ての…』を上演する.これで終わりのつもりのありったけの思いをつぎ込んだ芝居だった言う.そしてその最終日,駒場小劇場の裏に,寺山修司が,署名いりの自著をもって現れるのである.
胸がふいについまる。こんなに体調が悪いのか、なのに来て下さったのかという想い。そして数ある著作の内でも、寺山さんが最も精神の最先鋭のところから時代に向けて放った、実験劇の戯曲を持ってこられたということが、心にズンとひびいた。当時私は、寺山さんの強い影響下で実験的な手法の芝居を創ることにこだわっていた。その道は確かに険しくて、それもあって、ほとんど演劇を続けることを断念しかかっていたのだ。
けれども、もはや、やめられないと思った。私の一人合点かもしれない。けれども、寺山さんが、あの日,あのドラム缶の傍らで、〈君、続け給え〉とあの眼の奥で私に向けて言っていたような気がしたのである。それも、我儘に自分を通して、いかに険しくとも、最先鋭のところで時代と向き合うように生きろと。
そんなこと出来ません、と、その時私は言えなかった。そのくらい寺山さんの眼差しは哀しく、そして激しかったのだ。
あれから二十年,芝居に迷うと、私はあの本を開く。開いてその日の寺山さんの眼を思いだす。そしてまた歩き出すのだ。
そしてこれが,如月小春の絶筆となったことがなんとも残念である.『家庭画報』2001年3月号掲載.
本人の書いた文章の中から「BYE-BYEウオークマン 環境音再発見」の一部を引いておこう.
そして私の一番好きな音といえば、学校のチャイム、工場のサイレン、市役所の時報といった時刻を知らせる音たちである。こういった街の隅々にまで響く音で、時を刻み、人々の生活のリズムをつくるシステムは古くからある。教会やお寺の鐘などだ。しかしこの巨大な都市では教会やお寺の鐘ではまかなえない。そこでいろいろな音が登場するというわけだ。
一つの音が長く余韻を引いて都会の空を泳ぎ渡り、私の耳に届くとき、同じようにこの音をきいている無数の見知らぬ人のことを、その生活のことを考える。その途端、さっきまでは自分一人の生活に没入して、自閉的に生きていた私、ここが広くてエネルギーに満ち、変化に富んだ都市空間の中であったことを思いだすのだ。
音にしかできないことがある。音でしかわからないことがある。音という側面からこの都市を考えるとき、ふだんは聴きすごしていた環境ノイズの中に、人から人へと送られている無数のサインを感じ取ることが出来るだろう。
ここには,独特の環境音論がある.そして、都会育ちらしく「クラクションを楽しむ耳が都市の耳なのである」という.
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【読んだきっかけ】
いきさつは,こちらに.→
(“わざわざ本屋に行って、本を見たり、触ったり、買ったり,僕らは 本屋好き。” 『BRUTUS 2011年 6/1号』 マガジンハウス)
【一緒に手に取る本】
- 作者: 如月小春
- 出版社/メーカー: 新宿書房
- 発売日: 2001/12
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