“永年の論争に終止符を打つ. 日本文学史上最大の謎,森鴎外「舞姫」モデルついに発見” 『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』 六草いちか 講談社

鴎外の恋 舞姫エリスの真実

鴎外の恋 舞姫エリスの真実

2ヶ月ほど前に,『鴎外の恋人―百二十年後の真実』 今野勉 日本放送出版協会を読んだばかりのところに,書店で本書を目にした.また鴎外ものか,という気もしたが,どちらの本も「舞姫エリスの実像を突き止めた」とうたっている以上,行きがかり上読まないわけにはいかない.

本書の帯には,

永年の論争に終止符を打つ.
日本文学史上最大の謎,森鴎外舞姫」モデルついに発見

とある.

両書の結論は異なるわけであるが,軍配は,圧倒的に本書の六草の説に上げられると考える.今野の本を読んで,十分な納得が得られない点が二つあった.一つは,今野説による答えは「アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト」なのだが,日本へ来た乗船名簿にあるエリーゼの名との齟齬.二つ目は,鴎外と出会ったルイーゼが当時15歳で有ったという点.

六草説による答えは,「エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト」であり,当時20歳である.とは言え,今野氏の『鴎外の恋人―百二十年後の真実』も一読の価値がなくなるわけではない.

六草氏の本書の魅力は,説得力のある解が提示されているとともに,その推理の過程にある.まず,第一に,統計的な数字の根拠を丁寧に提示している点にある.例えば,当時のある教会における女性の結婚年齢を調べた上で,結婚を前提とした鴎外の恋人が15歳である可能性が低いことを推論している.別の例として,当時からユダヤ人国外脱出が始まる頃までのユダヤ人人口の推移とヴィーゲルト及びヴァイゲルト姓の人口の推移を比べた上で,ヴィーゲルト及びヴァイゲルト姓の一家がユダヤ人である可能性の低いことを推論している.著者は,科学的推論の基本的考え方を身につけていると思われ,この手の本でこうした論拠がきちんと提示されることは多くないであろう.

第二に,著者が行った調査や,推論の多くは,ベルリン在住20年に及ぶ生活の中で培われた知識や土地勘なくしてはあり得なかったものであるという点である.この点において,今野書におけるハンディキャップはあまりに大きい.以前に,記事,『恋の隠し方 ― 兼好と「徒然草」』 光田和伸 青草書房の中で,徒然草は,京都に生まれ育って初めて理解できる部分がある,と書いたが,それと同じことかもしれない.

いずれにしても,舞姫のエリスのモデルが明らかになって,めでたしめでたしである.今野本と同じように,その子孫が探し当てられれば完璧なのであるけれど.

それにしても,鴎外の若き恋,それも真剣な恋は,二度と会うことはなく,手紙だけのやりとりを続けた二人だけの胸の内に,秘められたものとなった.兼好法師の若き恋にも似ている.恋とはそういうものなのでしょう.

p.81

今回閲覧が許されたデータは,一九三九年に行われた国勢調査によるもので,これは当時,ユダヤ人の生死を決める重要な決め手となった

エリスはユダヤ人の貧民階級で,ユダヤ人街,それもいわゆるゲットーに住んでいたいたという説について.
p.89

発想は面白いが,舞台がベルリンとなると話が合わない.ベルリンにゲットーは存在しなかったのだ.
ベルリンにはゲットーを思わせる,“Grosser J〓denhof(大ユダヤ館)”および“Kleiner J〓denhof(小ユダヤ館)”という,中庭を囲んだ住居区が存在した.

ベルリンの墓地は,その多くが個人の墓で,しかも期限20年付きの賃貸契約であり,さらに,延長不可の墓は20年後に,延長可の墓は契約満了時に,掘り起こされ次の死者の名義に変わるという.これにつづいて次のような記述がある(p.97)

以上述べたのは一般市民の墓地事情だが,この賃貸制度にももちろん例外はある.故人が名誉市民になれば墓の管理も政府に委ねられ墓地は永久に残る.ちなみにベルリンでは,著名政治家のほか,メンデルスゾーンマレーネ・ディートリッヒ,グリム兄弟,日本人では田中路子(1909-1988.オペラ歌手,女優.前夫は大富豪ユリウス・マインル.国民的二枚目俳優ヴィクトリア・デ・コヴァとの再婚以来ベルリン在住.カラヤンなど著名人やヴィリー・ブラントなど大物政治家とも交友があり,私設公使館と言われるほど邦人の世話も多くした.一九九〇年名誉市民に認定)が市内の墓地に眠っている.

本書の主題と関係ないが,この田中路子である.『本は、これから (岩波新書)』の中で,最相葉月が触れているミチコタナカに他ならない.

ちなみに,これは,全くの偶然であるが,最相葉月には,『星新一 一〇〇一話をつくった人』という,星新一の評伝がある.SF作家の生涯を辿った好著である.星新一の祖父は,小金井良精であり,鴎外の妹の夫で,エリーゼ来日時に重要な役割をはたした.

【関連ブログ】
『鴎外の恋人―百二十年後の真実』 今野勉 日本放送出版協会
『恋の隠し方 ― 兼好と「徒然草」』 光田和伸 青草書房
これからの本が「どうなる」ではなく,「どうする」という意思がなければ,本の世界は何も変わらないだろう.  『本は、これから (岩波新書) 』 池澤夏樹編 岩波書店
【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

鴎外の恋人―百二十年後の真実

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恋の隠し方 ― 兼好と「徒然草」

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本は、これから (岩波新書)

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星新一 一〇〇一話をつくった人

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舞姫 (集英社文庫)

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模倣の時代 上巻

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